アンドレ・ブルトンの詩的な言葉たちとの出会いも、すこぶる受動的になされた。わたしは、この数々の美しさも、またいつものようにわたしの眼前を通りすぎてゆくのだと思った。しかし、予想に反して、『狂気の愛』のなかの謎に満ちた煌めきは、わたしの前にふいに立ち止まったのである。
この「出会い」は、必然的であるのだろうか。たまたま風がやんだだけではないのか。わたしはそう考えた。そしてもし、ブルトンその人でなくても、出会いはなされたのではないか。そのように疑った。しかし、ブルトンの文章は、何かをつかむことができないということは決して挫折でありはしないということ、そして、渇きのただなかにとどまることの愉しさを、わたしに教えてくれた。
今でもなおわたしは、自分の自由な状態からしか、あらゆるものと出会うべくさまようことへのこの渇きからしか、何かを期待することはない。これこそがわたしを、その他の自由な存在との、神秘的な交信の状態においてくれるのである。あたかも、われわれ自由な存在がとつじょ結集することを求められているかのように。見張りの歌、期待をまぎらす歌のつぶやき以外のささやきを、わたしの人生が背後に残さなければいいのだが。起こったり、起こらなかったりといったことに関係なく、すばらしいのは、期待そのものなのだ。(『狂気の愛』海老坂武訳、光文社古典新訳文庫、2008、p.62)この発言が感動的であるのは、受動性と能動性とを統合しようとする努力による。出会いを積極的につかみにゆくということは、究極の受動性としてさまようことであり、それがまさに期待することであると。
しかし仮に、この出会いの積極性を認めるとしても、わたしはブルトンの謎めきを真に理解したわけではない。むしろ、シュールレアリスムのオートマティックな文体の魅力とは、その文章が「わかること」ではなく「わからなくなること」であると感じる。しかし、われわれは言語を使ってものごとを表現する以上、そのことを「わかる」と言うのだけれど。
ただ、この出会いを単なる偶然のなかに落とし込むことだけは、避けなければなるまい。その糸口とは。
二人の人間、また何人かの人間のあいだにはたらく共感は、別々に追求したときには得られない解決への手がかりを与えるように見える。こうした共感は、出会いを好ましい偶然の領域へと移行させる、まさにそういう性質のものとなるだろう(共感の欠如は、好ましくない偶然の領域へと移行させるが)。それに対して、出会いがただ一人のためにしか生じないときは、それは考慮に入れられず、偶発事のなかに捨てられる。(Ibid.,p.74)出会いとは、そこで出会われる人間たちの努力によって、可能なものとなるのかもしれない。だとすれば、わたしにできることは、「わかる」ことではなく、「わからない」こと、わからなさのなかにとどまることのみである。そして、わからなさのうちにさまよい、もがき続けることは、出会いが結実することを期待することである。出会いを待ち望むことは愉悦である。