Sunday, January 22, 2017

実存的独白

 ひとと積極的にかかわろうとして外に出てゆくと、ひととかかわるのが大好きなひとたちにめぐりあうことが多い。みなだいたい、人と関わること、つながること、何かを共有し合うこと、与えあうこと、調和すること、などなどを絶対的な善としているひとたちのようだった。僕は嬉しい反面、どこか彼らに心開けないような感じを覚えた。そういうひとたちとの関係は、僕には少し過剰なのだ。


 僕はこのようなことに直面して、やはりじぶんは「近代の病」におかされているのではないかと思った。西洋近代的な自我、実存、過剰な言語化、などなどにやられているのではないか、じぶんが神経質なのは「西洋的なるもの」のせいなのではないか、と。
 そのことを、僕は彼らに率直に伝えた。言語化に対する強迫観念が、僕を神経質にさせるということを。
 彼らは西洋的なものを、東洋的なものによって乗り越えようとしていた。それを誇らしげに語った。そしてそれを、僕に促した。西洋とは病魔である、したがってわれわれはそれにしがみつく必要はないのだ、と。しかしそれは「本当」なのか。僕はまたしても西洋的なるものによってがんじがらめになるのだった。
 ランボーは詩によって、近代の病から脱出しようとした。しかし彼は、詩を書かないことでしか、そこから逃れることはできなかったのだ。僕が言葉を手放したら、いったい何が残るのだろうか。「楽に」なるのだろうか。