Monday, January 23, 2017

不確かさを考える

 精神分析家は、不確かさの中で仕事をしている。何が精神分析なのか、何を治しているのか、何が治すのか、どこで治すのか、どのように治すのかを、私たちは本当のところはよくわかっていないのかもしれない。私たちはその不可知性、操作不可能性の中で臨床を続ける不確かさを生き抜かなければならない。精神分析は、学派によらず、患者が表現する怒りや悲しみの中を治療者が生き抜くことの重要性を強調してきたが、筆者がここで述べているのは、精神分析は、不確かさに耐えられない患者とともに、その人生の不確かさをともに生き抜くことの必要性である。
(冨樫公一『不確かさの精神分析 リアリティ、トラウマ、他者をめぐって』誠信書房、2016、p.15)
この本を読み、「不確かな現実を受け入れるしかない」ということとどのように向き合うのか、ということを考えさせられた。不確かな現実に対して、確かさを追い求めてある解釈を試みることが悪いことなのではない。重要なのは、ある現実に対してほどこした解釈が、はたして正しいのかどうか、誰にもわからないということだ。そのような不確かさのうちに私たちはいる。
 この本は、治療者に向けて書かれてはいるが、「不確かさをともに生き抜く」という意味では患者も同じである。むしろこの問題は、精神分析という問題圏を逸脱しているかもしれない。われわれの日常こそ不確かさであるのだ。


 不確かさを生き抜くこととは、トラウマを受け入れることでもある。トラウマとは、自身の力ではどうしようもない現実である。現実はおそろしい。おそろしいがゆえに、「確かさ」を追い求めて、それを言葉にしようとする。しかし、確かさを求めた言語化は、挫折するかもしれないし、そこに浮かび上がった言葉が確かなものであるという確証はまったくない。ここで私たちはまた不確かさに出会うのだ。
 しかし、このような不確かさとは患者にとって、ある種の救いでもあると思う。なぜならば、不確かさは、確かなもののように見えるものが、実は必ずしも確かなものであるとは言えないということを私たちに教えてくれるからだ。それは分析家にも言えるし、患者にも言える、つまり私たち人間全体に言えることなのである。
 私たちは「確かさ」に惑わされやすい。それに心惹かれ、強迫観念のようにとらわれてしまうこともあろう。しかしそのような私たちも実は「不確かさ」のうちにいるということを、私は精神分析によって教えられたように思う。そしてとりわけこの本には、不確かさを生き抜く勇気をもらった。