Tuesday, February 21, 2017

未来に向けて

 以前から何回も書いているが、私は、子どもの頃目撃した両親の性行為の光景の衝撃に解釈を与えるために、「他人のセックスは気持ちが悪い」とか「子どもをつくることは悪だ」などと、恣意的な説明に頼っているように思える。つまり、自分が両親の性行為にショックを受けたのは、「他人のセックスが気持ち悪いから」であり、「子どもをつくることは悪だから」だと考えなければならなかった。これは自分なりの「幻想の構築」であったのだろう。
 しかしやはり、自分の存在の起源を否定することは、自分を否定することになると思う。自己懲罰的にもなる。「自分は悪によって産まれてきた。だから自分には何事にも「資格」がないのだ」と。
 ただ、今はここでこのように書くことができるというだけで、現時点で幻想に縛られていることに変わりはない。むしろ、幻想が構築できたということに「うまくやった」と言うこともできるかもしれない。それによってそれが重度のトラウマとなることを回避できたのかもしれない。


 大事なのはその先だ。これは本当にトラウマなのか、幻想なのかと考えても、答えは出なかった。たとえ「大丈夫。それは立派なトラウマだよ。よく頑張ったね」と言われたとしても、自己懲罰的な自分が邪魔をするだろうから。
 いやむしろ、「外的対象に対してこのように向き合った」というその「向き合いかた」が、すなわち自分というものだった。それは神経症的な向き合いかただったかもしれないが、自分はそのようにしか向き合えなかった。それは自分らしさでもあり、自分の弱さでもあった。そのような「自分」を変えることは、私には難しいことだった。
 
 過去と向き合う自分はきわめて強固であるから、それを根本から変えることはなかなか難しい。弱さや自己否定、自己懲罰も含めて。だから、それを糧にして──いや、糧というと何か「良きもの」のようであるがそうではなくて──それを携えたまま、未来に目を向けてみよう、と少しだけ思い始めた今日この頃である。