早速、新訳で出た、『テクストの楽しみ』を手にとってみた。
バルトが「身体」という時、それは(テクストの)快楽と結びついている。何かを喜びとともに語るという快楽は、内発性というよりも、まずはじめに身体性なのではないか。
身体のもっともエロティックな部分とは、衣服が口をあけるところではないだろうか?倒錯においては(これがテクストの楽しみの体勢である)、〈性感帯〉(それにしても、かなり厄介な表現だ)というものはない。いみじくも精神分析が言うように、エロティックなのは間歇性なのだ。二着な衣服(パンタロンとかセーターとか)のあいだで、ふたつの縁(はだけたシャツ、手袋と袖)のあいだで、きらめく肌の間歇性。誘惑するのは、このきらめきそのもの、さらにいうなら、現れること─消え去ることの演出である。(『テクストの楽しみ』鈴村和成訳、みすず書房、2017、pp.19-20)
テクストの楽しみ、それは私の身体がそれ自身の思念にしたがおうとする、この瞬間のことなのだ──なぜなら、私の身体は私とおなじ思念を持たないから。(前掲書、p.34)
わたしの長所は、いろいろなものに興味を抱くことだと思うが、そのことでまとまったものを感受できなくなってもいるので、ひとまずロラン・バルトを読んでみようという心持ちになっている。
わたしの「快楽」をバルトとともに語ってゆきたいと思う。