Tuesday, March 14, 2017

ロラン・バルトとともに(1)

 石川美子『ロラン・バルト 言語を愛し恐れつづけた批評家』を読んだ。言語に対する鋭敏な感覚ゆえに苦悩した、人間としてのバルトが浮き出てくるような文章だった。ところどころ感動的な引用がなされ、「バルトを読む」という、それこそテクストの快楽へとわれわれをいざなわずにはおかない。


 早速、新訳で出た、『テクストの楽しみ』を手にとってみた。




 バルトが「身体」という時、それは(テクストの)快楽と結びついている。何かを喜びとともに語るという快楽は、内発性というよりも、まずはじめに身体性なのではないか。
 身体のもっともエロティックな部分とは、衣服が口をあけるところではないだろうか?倒錯においては(これがテクストの楽しみの体勢である)、〈性感帯〉(それにしても、かなり厄介な表現だ)というものはない。いみじくも精神分析が言うように、エロティックなのは間歇性なのだ。二着な衣服(パンタロンとかセーターとか)のあいだで、ふたつの縁(はだけたシャツ、手袋と袖)のあいだで、きらめく肌の間歇性。誘惑するのは、このきらめきそのもの、さらにいうなら、現れること─消え去ることの演出である。(『テクストの楽しみ』鈴村和成訳、みすず書房、2017、pp.19-20)
 テクストの楽しみ、それは私の身体がそれ自身の思念にしたがおうとする、この瞬間のことなのだ──なぜなら、私の身体は私とおなじ思念を持たないから。(前掲書、p.34)



 わたしの長所は、いろいろなものに興味を抱くことだと思うが、そのことでまとまったものを感受できなくなってもいるので、ひとまずロラン・バルトを読んでみようという心持ちになっている。

 わたしの「快楽」をバルトとともに語ってゆきたいと思う。