Saturday, March 18, 2017

ロラン・バルトとともに(2)

 バタイユのテクストに対して感じていたこと、──それは、テクストが興奮していることである。わたしは、バタイユの思想そのものに対して魅力を感じてはいたが、テクストのテンションについてゆけない感じがあった。バタイユにおいてある内的体験への没入を、自分の肌で感じとることができなかったのだ。


 しかし、わたしはその没入を、バタイユの読解における規則だととらえた。バタイユのテクストの強靭な力に読者も加担しなければならないのだと。わたしは、バタイユに混乱した。いや、混乱しているふりをしていたのだ。バタイユと〈ともに〉混乱することができなかったのである。そこで、わたしの感覚に対する少ない言葉をおぎなうかのようにバルトはいう。
 私たちの言語にはまだヒロイズムが多すぎる。最良のテクストにおいてさえ──私はバタイユのテクストのことを考えるのだが──、ある種の表現の異常興奮、つづめていうと、一種油断ならないヒロイズムがある。テクストの楽しみには(テクストの歓びには)、そういうのとは反対に、戦意高揚の突然の消失、作家の蹴爪の束の間の剥落、〈元気〉の(勇気の)中断がある。(『テクストの楽しみ』鈴村和成訳、みすず書房、2017、pp.61-62)
 これは、わたしにとってのバタイユの新たな側面である。バルトのこの断章によって、バタイユのテクストの魅力は広がりをもったからだ。バルトは、バタイユのなかに否定的なものだけを見出したのではない。それは、テクストを遠くから注意深く吟味し、新たな楽しみ/歓びを見つけ出そうとする努力でもあると思う。わたしのうちにまた、バタイユは顔を出しつつある。