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Wednesday, March 29, 2017

グザヴィエ・ドラン『わたしはロランス』

 〈本当の自分〉を追い求めることはこんなにも美しい、と素直に思えた一方で、それは社会との隔りでもあるという現実も垣間見た。しかし、このような普通と異端との対立を超克するものも、逆説的にも、自分であれ他者であれ〈本当の自分〉を愛そうとすることなのではないか、と思わせる。

 〈本当の自分〉をめぐる生(性)に対するドラン監督の思いが作品に反映されているように思えて、不思議な高揚感に包まれた。


(グザヴィエ・ドランの作品は、いつにもまして、自分と他なるもの(人生、愛、家族など…)に直面する場であり、そこにおいて他者は、願望によって歪められずに、ありのままにある。そこには、われわれの願望充足こそないが、迷いのなかに〈気づき〉がある。)

Tuesday, February 21, 2017

未来に向けて

 以前から何回も書いているが、私は、子どもの頃目撃した両親の性行為の光景の衝撃に解釈を与えるために、「他人のセックスは気持ちが悪い」とか「子どもをつくることは悪だ」などと、恣意的な説明に頼っているように思える。つまり、自分が両親の性行為にショックを受けたのは、「他人のセックスが気持ち悪いから」であり、「子どもをつくることは悪だから」だと考えなければならなかった。これは自分なりの「幻想の構築」であったのだろう。
 しかしやはり、自分の存在の起源を否定することは、自分を否定することになると思う。自己懲罰的にもなる。「自分は悪によって産まれてきた。だから自分には何事にも「資格」がないのだ」と。
 ただ、今はここでこのように書くことができるというだけで、現時点で幻想に縛られていることに変わりはない。むしろ、幻想が構築できたということに「うまくやった」と言うこともできるかもしれない。それによってそれが重度のトラウマとなることを回避できたのかもしれない。


 大事なのはその先だ。これは本当にトラウマなのか、幻想なのかと考えても、答えは出なかった。たとえ「大丈夫。それは立派なトラウマだよ。よく頑張ったね」と言われたとしても、自己懲罰的な自分が邪魔をするだろうから。
 いやむしろ、「外的対象に対してこのように向き合った」というその「向き合いかた」が、すなわち自分というものだった。それは神経症的な向き合いかただったかもしれないが、自分はそのようにしか向き合えなかった。それは自分らしさでもあり、自分の弱さでもあった。そのような「自分」を変えることは、私には難しいことだった。
 
 過去と向き合う自分はきわめて強固であるから、それを根本から変えることはなかなか難しい。弱さや自己否定、自己懲罰も含めて。だから、それを糧にして──いや、糧というと何か「良きもの」のようであるがそうではなくて──それを携えたまま、未来に目を向けてみよう、と少しだけ思い始めた今日この頃である。

Saturday, February 18, 2017

ロマンポルノ・リブート・プロジェクトを振り返って

 ロマンポルノ・リブート・プロジェクトの全五作品をみ終えた。ひとまずFilmarksにあげた感想を列挙しておく。それぞれ観賞直後に書いたものである。

『ジムノペディに乱れる』
 板尾創路演じる主人公が完全にハマり役でした。性に逃走する男の悲哀が感じられた。男性目線の性という印象だけれど、これは僕が男だからだろうか。女性がみたらどのような感想を抱くのか気になる。

『風に濡れた女』
 ジャック・ドワイヨンの『ラブバトル』を彷彿とさせるスポーティーな濡れ場と映画全体に漂う軽さ。独特の空気感がよかった。間宮夕貴はまさに作品に「肉迫」した演技を見せてくれて圧巻。

『牝猫たち』
 めちゃくちゃよかった!こういう映画をみるとなぜか心が浄化される…。傷つけ、傷つけられながらも生きるひと。傷つくことをおそれるひと。傷ましい。けれど、彼女たちとの交流の中でふと浮かびあがる優しさと、そして切なさと。

 『アンチポルノ』
 こじらせの極みだけれど、狂っているのがどちらなのか、はたして誰なのか、わからなくなる。言葉にしたくてもなかなかできなかったことを100倍でっかくして言ってくれた監督に感謝。最高です。

『ホワイトリリー』
 濡れ場の美しさは五作品中随一ではないだろうか。物語よりも官能の予感やうつりゆきにドキドキさせられてしまう作品。


 ロマンポルノ・リブート・プロジェクトを通して考えさせられたこと。それは、性、セクシュアリティに対して自分はどのように向き合うのか、向き合ってゆけばよいのか、ということである。

 おそらく私は今まで、性の問題を重くとらえていたと思う。しかし、ロマンポルノにおける性は、どこか愉しさがあった。特に、最初の三作品ではときどき笑いをさそうシーンがあったことが印象的だ。それは、性を重くとらえすぎていた自分を、多少なりとも解放してくれるような愉しさでもあった。
 しかし、性は依然として、私にとって不可解なものであることに変わりはない。『アンチポルノ』に両親のセックスの描写があったが、私にとっての性とはまさにそこ(自身の起源としての両親の性行為)に行きつくのだ。そしてそれは、永遠に謎であり、恐怖であり、不安や嫉妬をかきたて続ける。
 一方で、『ホワイトリリー』では、レズビアンの性が美しくえがかれていた。それは私にとって魅力的だった。なぜなら、レズビアンは〈不能〉であるからだ。出生、つまり自分の存在の起源へと結びつかないレズビアンの性は、その光景のただなかにあっては、つかの間の幻想を私に与えてくれた。
 しかし、レズビアンの〈不能〉を理由としてレズビアンを純粋化、理想化することははたして誠実であろうか。自分の中の男性性に対する嫌悪と自己否定が彼女らに投影されてはいないか。私はこのような批判にさらされたのである。このような自分は、『牝猫たち』の中の「傷つくことを恐れる男のあり方」に、ある仕方で重なった。
 
 ただ、批判にさらされたとはいえ、私にとって毒となったのみではない。そこには自分を肯定する契機となりうるものも、多くあった。ロマンポルノ・リブート・プロジェクトはこのような、性に対して不完全な自分のあり方を受け入れるきっかけにもなったからだ。
 性やエロティシズムは私にとって謎であり続け、だからこそ私は不完全であり続けるのだけれども、それを自覚していくことは、生きるうえで無駄にはならないのかもしれない。

Monday, January 16, 2017

エロティックな映画について

 私にとって、映画をみることとは、生きることだ。生に直結している。なんだかポエムのようになってしまったけれど、最近そんな気がしている。もちろん、映画を言葉によって語る営為もまた楽しい。しかし、最後の最後まで言葉にできないものを含めて、自分の血となり肉となる。それは人生に役に立つという意味では必ずしもなくて、役に立たないもの、不安や葛藤、現実逃避すらをも含む。そういった全体的なものが、映画と自分をつないでいるように思う。
 映画と私とをつなぐ通路として、重要な役割を担っているのは、エロティシズムである。現在公開中のロマンポルノ・リブート・プロジェクトの三作品をみて思ったことは、私にとってエロティックな映画をみることはトラウマの治療なのではないか、ということだ。それは、少なからぬエロティックな光景を目の当たりにすることによって自分の傷を自覚してゆくいとなみなのではないか。しかし私は、強い外的な暴力によって深い外傷を負ったわけではない(たとえばPTSDのような)。私がエロティックな対象にとりわけ興味を抱くことから自己分析を試みると、このように考えることができるのではないか、ということである。


 エロティシズム、とりわけ映画におけるエロティシズムは、私にとって性的な外傷の再体験の場でもあるように思える。単なるセックスとしての性的興奮は一過性のものであるが、映画の映像的エロティシズムはそれが映像であることによって、どこか自分の根本的な外傷の映像的記憶とリンクするのかもしれない。映画のエロティシズムは、みる者の傷をまといながら、永遠性を帯びるのだ。
 
 

Saturday, January 7, 2017

外傷としての原光景

  僕は小学三年生のときに、フロイトのいう「原光景*」を体験した。ラカン派の精神分析家であるソニア・キリアコの症例集『稲妻に打たれた欲望 精神分析によるトラウマからの脱出』にはこうある。
 たとえ〈他者〉の暴力がなくとも、性的なトラウマを受けることはある。性的なものは、まず根源的に〈他〉のものとして体験されるのだ。欲動は主体にとってもっとも内密なところにあるにもかかわらず、異質なものとして体験される。欲動は主体の平穏を揺るがし、混乱をまき散らす。(ソニア・キリアコ『稲妻に打たれた欲望 精神分析によるトラウマからの脱出』向井雅明監訳、誠信書房、2016、p.44)
まさにそうだ。あの出来事は〈あの時の〉自分にとっては、全くの〈他性〉として経験された。したがってそれは端的な〈恐怖〉ではなかった。なぜなら僕は、その翌朝、何事もなかったかのように学校へ行ったのだから。それを〈恐怖〉として僕自身が捉えることを、現実は許さなかったのだ。それは「ただただ鼓動が激しくなった」というだけの体験。ひとつの空虚であった。しかしそれは僕にたしかな痕跡を残したのである。
 しかしシニフィアンは、子供を襲う欲動を完全に支配することに決して成功しない。身体における現実的なものの全てを表現するのに、言語は適切ではないのだ。現実的なものがまさに象徴的なものから逃れるものならば、シニフィアンと性的なものが一致しないということは容易に理解されうるだろう。(Ibid.,p.45)
 ここにラカンの〈現実界〉に対する認識がある。つまり、現実を前にして、言語は無力であるしかないという立場だ。
 (…)患者の外傷の原因はセクシュアリティというよりも、むしろ子供のそれに対処する能力の不足、すなわち幼年期におけるセクシュアリティに関する知の欠落から来ているということだ。この謎を前に少女は何もできないでいる。これが現実界というものである。それは意味を持たず、何にも関係を持たない。(Ibid.,p.45)
 このことを念頭に置くと、青年期に入り言語化が以前よりも容易になってきたことによって想起させられたセクシュアリティの痕跡を見出すことができる。
 幼稚園児のとき、仲の良い女の子がトイレに入っているのを見てしまい、彼女にペニスがないことに衝撃を受けた。衝撃を受けたというのは今から思えばそうなのであって、その時はそれを全くの〈他性〉として経験した。僕はそれ(彼女にペニスがないという事実)を、ただただ受動的に受け入れたのだった。その体験と関連するのが中学時代の記憶だ。早朝、まだだれも来ていない時間に登校して、女子トイレに入った。僕はただ〈女子トイレに入る〉ということが目的だった。幼少期の痕跡が、女子トイレという場所で僕に快楽を感じさせたのかもしれない。
 このようなセクシュアリティの痕跡(外傷)はなぜ想起するのだろうか。これは精神分析において「事後性」と呼ばれる概念である。
事後的効果 aprés-coups
 ラカンはフロイトにおける外傷の事後性を強調した。ひとつの出来事が外傷的なものとなるのは、その後に起こった別の出来事の遡及的な効果によるものである。幼児期に受けた性的侵害は、性についての知識がない時には外傷とならない。しかしそれは理解不能なものとして意識されずにとどまり、成熟後に起こった別の出来事によって呼び起こされると、外傷的なものとなる。外傷の原因は二重化されており、あるストレスが直接外傷に繋がるわけではない。ある出来事は、以前の記憶を外傷として喚起するために外傷の原因となるのである。(Ibid.,p.207)
 この、外傷の「事後性」を念頭に置いて、自分の「原光景」を考えてみると、重大な事実が浮かび上がる。つまり、原光景の体験は性的快楽の獲得に先んじていたということである。原光景の「意味」を理解するまでに、相当な年月を要したということだ。そして僕はその「意味」を知ったまさにその時に、原光景は「外傷」となったのだ。新宮一成は次のように原光景を説明しているが、外傷の事後性と現実界におけるシニフィアンの欠如を明快に言い表わしている点で秀逸である。
 原光景が外傷的であるのは、道徳的であるべき親がそこで性的な営みをしているからではない。むしろ、主体が自らの生存の始まりを尋ねてゆくとき、それ以上は先に進めない闇にぶつかって、やむなくそこにそのような映像を置かざるを得ないということが外傷的なのである。本来の外傷は、我々の一人一人が、自らの生存の始まりを、もはや直接には体験できないということである。(新宮一成『ラカンの精神分析』講談社現代新書、1997、pp.109-110)   
*「子供が実際に目撃したり、また想像したりした両親の性関係の光景のこと」(新宮一成『ラカンの精神分析』講談社現代新書、1997、p.109)