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Wednesday, February 22, 2017

「おしぼり」と「おてふき」

 カフェで「おしぼり」が欲しくて、店員さんにお願いしたのだけれど、「おしぼり」と言うべきか「おてふき」と言うべきか悩んだ。なぜなら「おしぼり」というとタオル風のものを連想したため、このサイズのものも「おしぼり」に含まれるのか心配になったからだ。


 それから、「おてふき」という単語からトイレを連想してしまったため、「おてふき」と言うのもためらった。トイレを連想しているときは、「おてふき=トイレ用品」という考えがぬけなかった。おてふき→ふき→ふく→トイレ、という連想。結局、「おしぼりは小さなサイズのものも含まれる」ということに期待して「おしぼりをください」と言った。
 思い返してみたら、こんなにめんどくさいことをたかだか20秒くらいのあいだに考えていた。冷静になれば、「おしぼり」でも「おてふき」でもよかったと気づく。いや、そのときにも気づいていたのだが、もしかしたら自分は「おしぼり」に対してとんでもない誤解をしている可能性を想定してしまった。

Thursday, October 20, 2016

自分のための研究

 僕は、このブログにおいてまじめなことを書くとき、自分のために書いている。自分を救うために、自分を治療するために書いている。だから、必ずしも生産的な内容になるわけではない。どうかあたたかい目で見守ってほしい。
 僕が今、何よりも困っていること。それは、人生の選択ができないということだ。最近、バイトの帰りにコンビニでビールを買って帰るのだが、自分がどのビールを飲みたいか考えれば考えるほど、どれを選べばよいのかわからなくなる。選択とはそういうことだ。どのビールを買っても大して変わり映えがしない。変わり映えのしないものの中から何かを選択することが、何かを選ぶということの内実なのだ。
 この記事でも紹介した、内海健『自閉症スペクトラムの精神病理』では、このような並列する選択肢が、ASD者のひとつの精神病理として捉え直されていた。

 理念によって経験がまとまりあがらないとき、事象は並列的になる。
 たとえば綾屋*1は、「食べたい」と思ったときには、他のさまざまな身体感覚とともに、「食べたくない」が併存するという。そして空腹なのかどうかもあやしくなる。
 定型者の場合は、たいてい「食べたい」か「食べたくない」のどちらかにまとまりがある。「食べたい」ときでも、あらためて本当に空腹なのかときかれたら、さほどでもないこともあるだろう。もしかしたら食べたくないのかもしれない。だが、こうした場合でも、たとえば「小腹がすいた」とか、「そんなに腹はへっていない」といったまとめ上げ方をするだろう。決して「食べたい」と「食べたくない」が並列するわけではない。この並列化は、しばしばASD者の決断不能や強迫と結び付く。(Ibid.,p.161)

 僕にはやりたいことがたくさんある。たくさんの選択肢がある。選択したいことがらに囲まれている。このことはとても幸せなことだろう。「やりたいことがあるだけで幸せ」。ひとはそう言うし、僕もそう思う。ただ、この幸せは、脇に置いておきたい。幸せは幸せとしてそのまま括弧に入れて考えたい。なぜなら、僕はそれを負い目に感じてしまうからだ。「やりたいことがたくさんあるにもかかわらずなぜ僕は選択しないんだ」と。そして、僕に「やりたいことがたくさんあって羨ましい」と言うひとたちに、どんどん負債を負っているような気になるのだ。しかし、こんな風に考えているそのときも、僕は判断から遠のいていくばかりだ。考えていると、それが本当にやりたいことなのかもわからなくなってしまう。このことに対する内海氏の説明は、おどろくほど的確だ。

 実のところ、選択においては、合理的になればなるほど、選べなくなるというちょっとしたパラドックスのようなものがある。重大なことになればなるほど、そうした傾向がある。だがASD者は、日常的な局面で、こうしたパラドックスで立ち往生してしまう。
 この並列化という現象は、行動における選択だけでなく、認知においてもしばしば現れる。その際、いくつかの解釈の可能性を列挙するだけで、そこから判断が立ち上がらない。(Ibid.,p.162)

 そして、判断が立ち上がらないもうひとつの理由は、内海によると「スケジューリングが苦手であること」だ。

 ASDは並列する選択肢の前でたたずむ。それが選択を方向付ける理念がないことによるのはすでにみた。今一つの理由は、一つのことを選択したあとの状況が想像できないということがある。現在を離脱して、時系列に展開するさまを思い描くことができない。(Ibid.,p.168)

 今まで、自分は選択に際していつも困るとかスケジューリングが苦手だとか思ったことはあったが、その二つに関係があるということは思っていなかった。やってみなければわからないが、短期的なスケジューリングの積み重ねによって、選択不可能性が緩和されるかもしれない。これは今後の地道な課題としたい。

 ここまで、僕が選択において考えすぎてしまうこと、判断が立ち上がらないことの説明を、内海のASD論によって補完した。選択できないことの言い訳のように思えるかもしれないが、なぜこのようなことを書いたかというと、言語化することで、僕の内なる「考えてしまう自己」は一定の意味で安心を得るからだ。今まで「考えるな。選択し行動せよ」そう自分を律しても、「考えてしまう自己」がオーバーヒートしてしまっていたのだ。ともあれ僕はひとつの安心を得た。
*1:綾屋紗月、熊谷晋一郎『発達障害当事者研究—ゆっくりていねいにつながりたい』医学書院、2008、p.26、前掲書より再引用

Saturday, October 8, 2016

当事者研究を考える

 僕は最近、自分は自閉症スペクトラムアスペルガー症候群)ではないかということがずっと気になっている。というのも、以前のカウンセラーに再三そのことを言われたからである。初めてそのことを言われて以来、当事者研究に興味をもち、発達障害当事者研究に関する本など、いろいろ読んだ。そのときに感じていたことは、当事者研究によって自分を制限してしまうのではないか、という不安である。診断名をもらっていないのに、自分を当事者として語ることは、「自分はかくかくしかじかの存在である」と決めつけて、現実に直面している問題を先送りにしてしまうのではないかと思った。実際に僕は、臨床的な意味での診断は必要ないだろう、と言われた。診断を下すことで何か当事者にとってメリットがあるから診断するのであって、アイデンティティの確保だけのための診断ではないからである。僕はこのように考えて、それ以来自閉症スペクトラム当事者研究について、手をつけないでいた。現実的な問題の解決を優先させたのだ。
 しかし僕は、自閉症スペクトラムについて調べていたとき、不思議な楽しさがそこにあったことを思い出した。たしかに僕は、診断名というアイデンティティにすがっていたのかもしれないけれど、そのこととは別の、自分という存在が研究を通して言語によってありありと語られてゆくことに、快感を感じていたのである。
 内海健の『自閉症スペクトラムの精神病理』という本は、まさにそのような快感を僕に与えた。ASD者の世界を、ここまでアクチュアルに語っている本は初めてで、感動すらした。定型者の側からの一方的な語りではなく、非定型者への安直な共感でもなく、そこにあるのはあくまで人間を相対化した客観的な視点であった。自分が体験していたにもかかわらず言語化できなかった事柄がそこにはあった。それは僕にとって診断名より大事なことだった。自分が語られていたからである。
 この喜びは、当事者研究を躊躇させないのではないだろうか。正直僕は(発達障害の)当事者研究をしている人たちをばかにしていたと思う。彼らはどこか凝り固まっているように思えた。弱者としてのアイデンティティをそれによって保っているように思えた。でも、それは僕の想像力の欠如だったかもしれない。もっと根本的な、自分を取り戻したいという欲求なのかもしれない。そしてその自分が語られたとき、研究は喜びに変わるのだろうと思う。