僕は小学三年生のときに、フロイトのいう「原光景*」を体験した。ラカン派の精神分析家であるソニア・キリアコの症例集『稲妻に打たれた欲望 精神分析によるトラウマからの脱出』にはこうある。
たとえ〈他者〉の暴力がなくとも、性的なトラウマを受けることはある。性的なものは、まず根源的に〈他〉のものとして体験されるのだ。欲動は主体にとってもっとも内密なところにあるにもかかわらず、異質なものとして体験される。欲動は主体の平穏を揺るがし、混乱をまき散らす。(ソニア・キリアコ『稲妻に打たれた欲望 精神分析によるトラウマからの脱出』向井雅明監訳、誠信書房、2016、p.44)まさにそうだ。あの出来事は〈あの時の〉自分にとっては、全くの〈他性〉として経験された。したがってそれは端的な〈恐怖〉ではなかった。なぜなら僕は、その翌朝、何事もなかったかのように学校へ行ったのだから。それを〈恐怖〉として僕自身が捉えることを、現実は許さなかったのだ。それは「ただただ鼓動が激しくなった」というだけの体験。ひとつの空虚であった。しかしそれは僕にたしかな痕跡を残したのである。
しかしシニフィアンは、子供を襲う欲動を完全に支配することに決して成功しない。身体における現実的なものの全てを表現するのに、言語は適切ではないのだ。現実的なものがまさに象徴的なものから逃れるものならば、シニフィアンと性的なものが一致しないということは容易に理解されうるだろう。(Ibid.,p.45)
ここにラカンの〈現実界〉に対する認識がある。つまり、現実を前にして、言語は無力であるしかないという立場だ。
(…)患者の外傷の原因はセクシュアリティというよりも、むしろ子供のそれに対処する能力の不足、すなわち幼年期におけるセクシュアリティに関する知の欠落から来ているということだ。この謎を前に少女は何もできないでいる。これが現実界というものである。それは意味を持たず、何にも関係を持たない。(Ibid.,p.45)
このことを念頭に置くと、青年期に入り言語化が以前よりも容易になってきたことによって想起させられたセクシュアリティの痕跡を見出すことができる。
幼稚園児のとき、仲の良い女の子がトイレに入っているのを見てしまい、彼女にペニスがないことに衝撃を受けた。衝撃を受けたというのは今から思えばそうなのであって、その時はそれを全くの〈他性〉として経験した。僕はそれ(彼女にペニスがないという事実)を、ただただ受動的に受け入れたのだった。その体験と関連するのが中学時代の記憶だ。早朝、まだだれも来ていない時間に登校して、女子トイレに入った。僕はただ〈女子トイレに入る〉ということが目的だった。幼少期の痕跡が、女子トイレという場所で僕に快楽を感じさせたのかもしれない。
このようなセクシュアリティの痕跡(外傷)はなぜ想起するのだろうか。これは精神分析において「事後性」と呼ばれる概念である。
・事後的効果 aprés-coups
ラカンはフロイトにおける外傷の事後性を強調した。ひとつの出来事が外傷的なものとなるのは、その後に起こった別の出来事の遡及的な効果によるものである。幼児期に受けた性的侵害は、性についての知識がない時には外傷とならない。しかしそれは理解不能なものとして意識されずにとどまり、成熟後に起こった別の出来事によって呼び起こされると、外傷的なものとなる。外傷の原因は二重化されており、あるストレスが直接外傷に繋がるわけではない。ある出来事は、以前の記憶を外傷として喚起するために外傷の原因となるのである。(Ibid.,p.207)
この、外傷の「事後性」を念頭に置いて、自分の「原光景」を考えてみると、重大な事実が浮かび上がる。つまり、原光景の体験は性的快楽の獲得に先んじていたということである。原光景の「意味」を理解するまでに、相当な年月を要したということだ。そして僕はその「意味」を知ったまさにその時に、原光景は「外傷」となったのだ。新宮一成は次のように原光景を説明しているが、外傷の事後性と現実界におけるシニフィアンの欠如を明快に言い表わしている点で秀逸である。
原光景が外傷的であるのは、道徳的であるべき親がそこで性的な営みをしているからではない。むしろ、主体が自らの生存の始まりを尋ねてゆくとき、それ以上は先に進めない闇にぶつかって、やむなくそこにそのような映像を置かざるを得ないということが外傷的なのである。本来の外傷は、我々の一人一人が、自らの生存の始まりを、もはや直接には体験できないということである。(新宮一成『ラカンの精神分析』講談社現代新書、1997、pp.109-110)
*「子供が実際に目撃したり、また想像したりした両親の性関係の光景のこと」(新宮一成『ラカンの精神分析』講談社現代新書、1997、p.109)