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Saturday, March 18, 2017

ロラン・バルトとともに(2)

 バタイユのテクストに対して感じていたこと、──それは、テクストが興奮していることである。わたしは、バタイユの思想そのものに対して魅力を感じてはいたが、テクストのテンションについてゆけない感じがあった。バタイユにおいてある内的体験への没入を、自分の肌で感じとることができなかったのだ。


 しかし、わたしはその没入を、バタイユの読解における規則だととらえた。バタイユのテクストの強靭な力に読者も加担しなければならないのだと。わたしは、バタイユに混乱した。いや、混乱しているふりをしていたのだ。バタイユと〈ともに〉混乱することができなかったのである。そこで、わたしの感覚に対する少ない言葉をおぎなうかのようにバルトはいう。
 私たちの言語にはまだヒロイズムが多すぎる。最良のテクストにおいてさえ──私はバタイユのテクストのことを考えるのだが──、ある種の表現の異常興奮、つづめていうと、一種油断ならないヒロイズムがある。テクストの楽しみには(テクストの歓びには)、そういうのとは反対に、戦意高揚の突然の消失、作家の蹴爪の束の間の剥落、〈元気〉の(勇気の)中断がある。(『テクストの楽しみ』鈴村和成訳、みすず書房、2017、pp.61-62)
 これは、わたしにとってのバタイユの新たな側面である。バルトのこの断章によって、バタイユのテクストの魅力は広がりをもったからだ。バルトは、バタイユのなかに否定的なものだけを見出したのではない。それは、テクストを遠くから注意深く吟味し、新たな楽しみ/歓びを見つけ出そうとする努力でもあると思う。わたしのうちにまた、バタイユは顔を出しつつある。

Sunday, January 15, 2017

『ラスコー展』感想


 上野の東京国立科学博物館で開催されている『世界遺産 ラスコー展 〜クロマニョン人が残した洞窟壁画』に行ってきた。
 写真は、クロマニョン人が残した洞窟壁画のなかでも、最も有名な壁画のひとつである。バタイユはこの壁画について、われわれ現代人の到達できないところのひとつの謎、そして、死に結びついたエロティシズムを見いだした。
 野牛からの、内臓をなくしつつ死に瀕している怪物からの、この勃起している死んだ男が殺したらしい一種のミノタウロスからの近さ。
 おそらく、これほど喜劇的な恐怖感で重苦しく、しかも概して理解不可能な図像は、世界中、ほかにないであろう。
 それは、時代の黎明期に現われる滑稽な残虐さを伴った手に負えない謎なのである。この謎は、まさに、それを解くことが問題なのではない。けれども、それを解く手段がわれわれに欠如しているということが事実であるにせよ、われわれは逃げるわけにはいかない。いかにも、その謎は理解不可能ではあるが、少なくとも、それは、われわれに、その深みにおいて生きることを提案する。
 それは、人間的に提起される最初の謎なのであって、エロティシズムと死によってわれわれの中に口を開く深淵の底に降りることをわれわれに要求するのだ。(『エロスの涙』森本和夫訳、ちくま学芸文庫、2001、p.66)
 この壁画は、われわれにひとつの「謎」を提起したのであるが 、しかしバタイユはまた、それが「謎」であるというまさにそのことによって、ラスコーの壁画とわれわれ現代人とのあいだに、たしかな交流があると考えていたのだと思う。われわれは、古代人がどのような意図で壁画を描いたかということを、もはや完全に知ることはできない。しかし他方で、これらの重大な「謎」の数々が、われわれにエロティシズムを喚起するということは、まぎれもない事実であるのだ。
 僕はこれらの壁画を見ながら、古代人の息吹のようなもの、そして、古代人がたしかに生きていた(いや、今まさに生きている!)ということの衝撃を感じていた。自分の実存的な葛藤など、もはや問題にならないかのような……。 

Wednesday, January 4, 2017

『奇跡の海』と『ダンサー・イン・ザ・ダーク』における贈与の問題

 今回は、ラース・フォン・トリアー監督の『奇跡の海』と『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を哲学的に重要な主題である〈贈与〉という観点から考えてみたいと思う。この二つの作品は、〈贈与〉という問題設定においてシンクロしていると思われる。
 注目すべきは二人の女性だ。つまり、『奇跡の海』のベス、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のセルマである。この二人の行為は〈自己犠牲的〉だと、これらの作品をみたひとは思うかもしれない。『奇跡の海』においてベスは、夫のヤンへの愛のために自らの身体を他の男性によって慰めた。そして最後は、自分の命とひきかえにヤンの命が救われるという〈奇跡〉が起こされたのである。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』においてセルマは、息子の失明を防ぐために死刑を受け入れる(友人のキャシーは息子の手術費用で弁護士を雇うことを勧めたが彼女はそれを拒否した)。彼女にとって最も大事なことは、自分の命ではなく、息子の眼だったのだ。
 この、一見すると自己犠牲的に見える二人の行為は、本当に自己犠牲といえるのだろうか。
 まず、自己犠牲とはどのような行為であるか、考えてみよう。自己犠牲とは、相手に対して自分の内なる何かを犠牲にすることで他者に与える行為であろう。自分を犠牲にすることとは、自分の〈欲望〉を犠牲にすることである。自己犠牲においては、自身の内的なエネルギー(欲望)に忠実ではないのだ。では、贈与とはどのようなものであるか。バタイユはフランスの社会学者マルセル・モースに言及してこのようにいう。
 「理想的なかたちは」とモースは指摘している、「ポトラッチを与えて、返報を受けないことであろう。」この理想は慣習の中に可能な対応物を見出せぬような或る種の破壊行為を行なうことによって実現される。(「消費の概念」『呪われた部分』 ジョルジュ・バタイユ著作集、生田耕作訳、二見書房、1973、pp.275-276)
 ここでいわれているのは、〈純粋な贈与〉である。そしてそれは「可能な対応物を見出せぬ」ために、一方的な贈与となる。ポトラッチにおいては、相手よりより多く贈与したほうが勝者となる。つまり、贈与行為が各人の内的エネルギー(欲望)にもとづいているのだ。
 またバタイユは、このような一方的な贈与を、太陽のそれになぞらえる。
 生命の最も普遍的な条件について簡単に触れておきたい。決定的重要性をもつ一事実に注意を惹くだけにとどめよう。つまり太陽エネルギーがその過剰発展の起源であるということだ。われわれの富の源泉と本質は日光のなかで与えられるが、太陽のほうは返報なしにエネルギーを──富を──配分する。太陽は与えるだけでけっして受け取らない。(Ibid.p.35)
 このようなバタイユ的な極限の贈与を念頭に置くと、この二人の行為の内実が明らかになる。つまり、ベスとセルマの二人は、内的エネルギー、つまり〈己れの欲望〉を犠牲にしなかったのだ。であるから、彼女らの行為は〈自己犠牲〉ではなく〈純粋な贈与〉である。彼女らは〈己れの欲望〉に突き動かされて愛する者に贈与したのである。そしてその内実は、「可能な対応物を見出せない」ところの〈自己破壊〉であり〈死〉であったのだ。
 付言しておきたいのは、二作品とも、贈与された側のことがあまりえがかれていないということだ。『ダンサー〜』においては息子よりも「セルマの死」に焦点が当てられている。『奇跡の海』においてはむしろ、〈奇跡〉が起きた後の、息を吹き返したヤンの清々しい表情が見られる。これらのことは、贈与行為によって相手側に〈負い目〉が生じなかったということではないだろうか。バタイユのいう〈太陽の贈与〉がなされたということの証左ではないだろうか。 

Friday, December 16, 2016

コミュニカシオン

 カルチャーセンターでバタイユの講義を受けた。今回は2回目。楽しくて楽しくて仕方がなかった。僕は彼女といる時以外は、常に何かにとらわれていて、自分はものごとを楽しんでよいのだろうかと疑い、楽しむことに負い目を感じていた。でも今回はその感情が消えていた。内容がおもしろかったのはもちろんだが、むしろそれよりも、先生の生き生きした姿、楽しそうに話す様子、受講生の真剣なまなざし、そういったすべてが、僕をとらわれから解放してくれた。純粋な知的好奇心が芽生えた。バタイユのいう「交流(コミュニカシオン)」が、小さな交流が、あの場所で生じていたのかもしれない。
 一年ほど前から僕はずっと葛藤していたように思う。自分とASD、自分と言語の関係を考えることに埋没していった。必ずしも生産的な思考ではなかった。自分はこんなことをしていて良いのかと焦り、不安に駆られ続けていた。しかし、それは無駄なことではなかったと、思えるようになってきた。言葉でものごとを考える楽しさを感じているからだ。今は、以前よりも自分の知的好奇心に納得している。大切なことは、自分が楽しみ、生き生きとしているかどうかだ。そのことを、先生に体験を通して教えられたように思う。その姿は、権威などとはほど遠いものであった。とことん無力(アンピュイサンス)であり、まるで子どものようであった。

Saturday, July 2, 2016

バタイユについて思うこと

 本を読んでいると、ひとはそこから何かを感じとりたいと願うものだろう。僕は今バタイユを読んでいるが、何かを感じとりたいと願いつつも、それはまったくと言えるほど達成されていない。バタイユの翻訳者である出口裕弘はこう言う。

 原著者がいずれは命を削って書いたであろうものを、そう安直に理解したつもりになっては罰が当たろうというものだ。(バタイユ『内的体験』出口裕弘訳、平凡社ライブラリー、p.452、訳者あとがき)

 僕は胸をなでおろした。しかしそうは言っても、では僕はなぜバタイユを読んでいるのだろう。つまらないのならば、読む理由などない。僕がカントをつまらないと感じ読まないのと同じ理由で読まなければ良い。でもそこに何かあると感じてしまうのだ。だがバタイユは、その期待を打ち砕くかのようなことをいう。

 この本はある絶望の物語だ。(Ibid.,p.15) 

 何を書こうとも私は失敗に終わる。(Ibid.,p.98) 

 したがって、バタイユに対してある遠さを感じている僕のような者にとって、バタイユの世界に入ってゆくことは非常な勇気を必要とするのだろう。失敗や絶望、不安や孤独を恐れぬ態度、それを必要とするのだろう。
 翻訳者の出口さえも、バタイユに対する自身の遠さをほのめかしていなくはない。

 花の香りの、沈黙の、測定不能の赤裸の現存を、バタイユは脳のしびれるような瞬時の内的燃焼としてしばしば体験することができた人なのだろう。その点、羨望をそそらずにはすまぬ人物である。*(Ibid.,p.454、訳者あとがき)

 バタイユ自身の赤裸の現存の体験、そしてバタイユという人物に羨望した出口と同じように、僕はバタイユや、バタイユを読み少しでもバタイユと体験を共有している人々を羨ましく思う。
 しかしここでも、バタイユは希望を打ち砕く。

 人々は私に嫉妬を掻き立てることはできまい。私が望んでいたのは砂漠だ。明晰にして際限のない死に必要な場所(条件)だ。(Ibid.,p.122)

 この言葉を見て、僕は戸惑った。不安になった。このまま僕はバタイユを読み続けていいのか、と。僕は砂漠など望んでいない。砂漠とは空虚な場所だろう。砂漠の中に身を投げることは人生を無駄にすることではないのか。僕は豊かなものを望んでいるのに!バタイユの言葉は勇気を試す。「勇気を出せばかくかくしかじかのものが得られる」という仕方で試すのではなく、勇気の後も砂漠なのだ。だから、もはや勇気だけが試されているといえる。
 「でも僕は勇気のない人間だ!」と言いたいところだが、僕は勇気のない人間と決まったわけではない。なぜならば、バタイユの書物を読むというそのことも、ほんの少しの勇気かもしれないからだ。その場合、僕はその勇気自体をおそれている。 

 こうも僕を不安にし、かき乱すバタイユとはいったい何者なのだろう。出口は声高にこう言っていた。

 むしろ私は、『内的体験』を精読した者として、「この本はある絶望の物語だ」と序文に書いたバタイユの率直さに感嘆するのである。絶望の物語!自分の本の序文にそういう旗を掲げるだけの勇気のある人間が、この現代に何人いるだろうか。 (Ibid.,p.455、訳者あとがき)

 そう。バタイユ自身が勇気のある人間だったのだ。僕は勇気のあるバタイユが羨ましいし、それを垣間見た出口が羨ましい。僕とバタイユの距離はまだ、とてつもなく遠い。僕は今後もバタイユを読んでいられるだろうか。

*バタイユ自身の「沈黙を成就させるのは、心情のあの深くまた病的な愛だ。ある花の香りがさまざまな無意志的記憶に充たされていれば、その花の優しさが瞬時にして私たちに頒ってくれる秘密の、その胸苦しさのうちに、私たちはひとりで花の匂いを嗅ごうとして歩みをとどめるだろう。この秘密とは、内的な、沈黙の、測定不能の、赤裸の現存にほかならない。」(Ibid、p.50)という言葉に言及しながら。

Monday, June 27, 2016

三島由紀夫のバタイユ論

 三島由紀夫は晩年の「小説とは何か」という評論において、バタイユの小説三部作のなかの『マダム・エドワルダ』と『わが母』について書いている。しかし彼は、バタイユの思想のなかでとりわけ重要な「神」という概念を独特なしかたで捉えていると感じた。それはとりわけ『マダム・エドワルダ』論において顕著である。
 三島は『マダム・エドワルダ』の「神」概念について、ある解釈を与えている。ここに引用してみよう。

 さて、この短編小説は、神の存在証明の怖ろしい簡潔な証言を意図したものであるが、全体の構造は、「いつ神が現はれ、いつ神の存在が証明されるか」といふ、スリラーのやうなサスペンスを織り込んでゐる。そのため構成は、一幕物のやうに注意ぶかくしつらへられ、前段、「おれ」がマダム・エドワルダと会つて、寝て、裸の上にドミノを羽織つて突然外出するエドワルダを追ふまでは、エドワルダ自身「神」を名乗りはするけれども、「おれ」は未だ見神の体験に達せず、神の存在証明は放置されてゐる。
 それが、「空虚な狂おしい青空」の下で、アーチの門下に立つ黒衣のエドワルダを「おれ」が見るとき、すでに性的釈放によつて彼女から解放され、陶酔を免除された「おれ」は、エドワルダが、彼女自身名乗つたやうに「神」であつたことを認識する。
 しかし、それは実は、理神論的な神であり、肉慾から醒めた理智により悟性によつて到達された、デカルト的な神であると云つてよからう。これはいはば、この巧妙な小説家のトリックである。(…)
(「小説とは何か」(『三島由紀夫全集第34巻』)2003、新潮社、p.713~714)

 つまり、小説の前段の時点では主人公は未だ神を見ておらず、それは理性的な仕方で神を認識したにすぎない。そして主人公のほんとうの見神体験は、小説の最後、つまりエドワルダがタクシーの運転手を交えエロティシズムの極限に至るそのときになされるというのだ。それはバタイユが小説家として施したトリックであり効果であるというのだ。
 三島は、バタイユにおいてときどき18世紀的な理神論の残滓を見出すと書いていた。それが、バタイユの言いたかったほんとうの見神体験のための伏線になっているということだろう。しかしこのような見方は、バタイユの「神」概念のある一面しか汲みとれていないのではと思った。
 三島は「この短編小説は、神の存在証明の怖ろしい簡潔な証言を意図したものである」という。はたしてそうであろうか。彼の見解はたしかに、キリスト教的近代的な神にエロティシズムと苦痛を対置させた非理性的な神であるのかもしれない。しかしそれは「神の存在証明」といういわば完成系を念頭に置いていて、理性と非理性のうちに、脱出口のない夜の闇のうちを彷徨うというあり方を欠いているために、いまだ西洋的な神の観点にとどまってしまっているのではないかと思った。
 
 (三島はバタイユを「上品だ」と言っていた。上品とは一本筋が通っている姿勢のよさということだと。なるほど。しかし上品とはどういうことだろうか。下品であるのと同程度に上品であるのか、つまり上品であればあるほど下品であるのか。僕はそう思っていた。しかし三島の見方はすこし違うような気がするがうまく言えない。その意味を考えたい。)

Sunday, June 19, 2016

『わが母』を読む

 バタイユの小説において根底にあるものはだいたいにおいて共通しているだろう。それはエロティシズム、死、夜、闇であり、われわれが日頃見ようとしないもの、目を背けてしまうものである。バタイユは『太陽肛門』において、われわれが目を背けるものを太陽になぞらえてこのように述べる。

 勃起と太陽は死体や地下室の暗闇と同様に眉をひそめさせる。植物は一様に太陽の方向を目指す、だが逆に、人間的存在は、樹々のように陽物状であるにもかかわらず、ほかの動物たちと反して、それから必然的に眼をそらす。
 人間の眼は太陽にも、交接にも、死体にも、暗闇にも耐えることができない、もっともその場合の反応は区々であるが。(『太陽肛門』(ジョルジュ・バタイユ著作集)生田耕作訳、1971、二見書房、p.157)

 これらのものを見ようとする場合には必ず恐怖が伴うだろう。しかしバタイユはそのような恐怖のなかへ入ってゆこうとする 。それはなぜか。『わが母』のなかに印象的な記述がある。

 「」とは私のうちなる、過去、現在、未来にまたがる「おぞましいもの」への恐怖である、あまりのおぞましさに私は、それが嘗てあり、現にあり、未来もあることを必死で否定し、否定することを力一杯叫ばずにはいられない、しかしこれは本心からではない。
(『わが母』(ジョルジュ・バタイユ著作集) 生田耕作訳、1996、二見書房、p.63)

 われわれは太陽とおなじように目をそむけるもの、おぞましいものを力のかぎり否定したくなる。バタイユ自身も然り。バタイユは太陽という肛門のなかに悠々と入っていったのではない。バタイユもそれを否定したかったのだ。しかしそれは「本心からではない」ということをわかっていた。(このことがフロイトの無意識心理学に影響を受けているのはあきらかであろう。しかしバタイユの問題意識は、そのような精神分析的な領域をすでにしてふみこえている。それは精神分析がヒステリーや神経症の治療という臨床にとどまっていたからだ。)
 この『わが母』という小説は、母親との近親相姦にもとづいた激烈な愛の、いや、愛とすら呼べない究極のおぞましさと陶酔の表現である。そしてこの作品に特徴的なことは、母親を性的なものとして認識するという素材によって他の作品とはちがった意味でのおぞまそさを呈していることであろう。それはつまり、「こんなにまで汚らわしい母親から私が生まれたというおぞましさ」である。それはもう修正不可能な苦悩である。私はもう生まれてしまったのだから…。母は息子のピエールにこう言う。

 「ピエール!お前はあの人の息子じゃないわ。森の中であたしが感じた恐怖から生まれた果実よ。森の中に素っ裸で、獣みたいに素っ裸でいたとき、戦慄の悦びを味わっていたときにおぼえた恐怖から、お前は生まれたのよ。ピエール、腐った木の葉の中に寝ころんで、何時間もあたしは楽しんでいたの。その楽しみからお前は生まれたのよ。あたしはけっしてお前を相手には堕落しないつもりよ、でもお前に知っておいてもらいたかったの。ピエール、父さんを憎みたかったら、憎みなさい、でもあたし以外に、お前を生みだした獣じみた興奮のことをお前に話して聞かせる母親がどこにいるでしょう。まだほんの少女だったけど、自分の中で欲情がどこまでも、途方もなく燃え上がっていくのが、だんだん淫蕩な女になっていくのがあたしはわかっていたの。お前が一人前の男になると、あたしはお前のために心配しました、あたしがどんなに心配したか知ってるでしょう」(Ibid.,p.129~130)

 母エレーヌは息子に、このような生々しい、戦慄をおぼえるような恐怖の真実を伝えたのだ。ピエールはこのような母親を恐れながら、彼女を神のように崇めないわけにはいかなかった。自分の中の「神」、つまり内なる「おぞましいもの」に対する恐怖に、魅惑されてしまったのだ。
 
 僕はこの作品を、自分の個人的な、母親に対するとらわれに基づいて読んでしまった。これがバタイユの読み方として妥当なのかということは皆目分からない。基本的にバタイユの書いたものは、ストーリーはわかりやすいが、本当に言いたいことは何なのか一見したところわからないのである。いつも、「君が受け取ったその不確かなものをそのまま正視して生きろ」と言われているかのような心地になるのだ。この作品を、母親に対するとらわれから抜け出してそれを超えたところで読むべきなのか、あるいはそのとらわれのうちで読むべきなのか。そもそもそんなことは問題ではないのか。今後はそれを考えたい。

Thursday, June 9, 2016

『死者』を読む

 バタイユが1943年ごろに執筆したとされる『死者』には、全編にわたってその名のとおり「死の匂い」が漂っているように思えた。「匂い」と表現したのは、この作品には「死」の内実はえがかれておらず、事実として呈示されているだけであるからだ。つまりこの物語は、エドワールという男の死で始まり、主人公マリーの死によって終わる。「エドワールが息を引きとったとき、彼女の内部に一種の空洞が生じ、長い戦慄が全身を走り、天使のように彼女を高みへ持ち上げた。」(バタイユ『マダム・エドワルダ(バタイユ作品集)』生田耕作訳、1976、角川文庫、p.39)という一節から始まり、その後を追うようなマリーの死で終わる。なぜエドワールは死んだのか、ふたりは愛によって結ばれていたのか、なぜマリーは後を追わねばならなかったのか、などなどの興味深い「死の内実」は謎としてわれわれに残されたままだ。示されているのはただ、マリーと居酒屋の男たちとの常軌を逸した淫行だけだ。そしてこのふたつの死の事実によってはさまれた物語は、死の匂いで充満するのだ。
 このような作品の構造を示すことでバタイユは、死というものをできるだけ実体化しないように心がけているように思えた。死をおぞましいものとして恐れながらも死に魅惑されるようなあり方(「死者のわきに、立ちつくししたまま、ぼんやり、我を忘れ、いつ果てるともない、愕然たる陶酔感に身をゆだねていた。絶望を自覚しつつも、その絶望と戯れていた。」(Ibid.,p.39))。つまり、死をかくかくしかじかのものであるとせずに絶望と陶酔の只中を生きるのである。このことは、イエスの死を実体化して権威に仕立て上げたキリスト教への反抗でもあるのだろう。
 もちろん、この物語は死がひとつの主題であるが、死の絶対的肯定ではない。死を肯定することは、死を実体化してしまうからだ。
 (この小説は物語の展開としては読みやすいものの、読後も釈然とせず、作品の短さのなかにバタイユの根本的な思想が凝縮されているのか極めて難解であるという印象を受けた。ただ、だからといって敬遠されるべきというのではなく、ひとつの小説としておもしろいと思ったので、多くのひとに読んでもらいたい。特に、マリーの常軌を逸した狂乱ぶりは読むひとを不思議な高みへとよびこむだろう。)

Monday, June 6, 2016

『マダム・エドワルダ』を読む

 バタイユの代表作『眼球譚』は、眼球や玉子への嗜好、屍姦趣味などのいわば倒錯的なエロティシズムの表現でもあったが、この愛すべき短編『マダム・エドワルダ』はもっと直接的で究極的なエロティシズムへの向こう見ずな努力であるという気がした。

 最初にさまよいこんだのは、ポアソニエールの四つ辻からサン=ドニ通りにいたるあのいかがわしい界隈だった。ひとりぼっちで、猥褻な気分も高まり、酔いはきわまった。ひと気のない通りで、夜が裸になっていた。私も夜とおなじように裸になりたくなった。ズボンを脱いで、腕にひっかけた。夜の冷気に馬乗りになりたかったのだ。目もくらむような自由が私を包んだ。自分が大きくなったように感じる。手は硬直した性器をつかんでいた(『マダム・エドワルダ』中条省平訳、2006、光文社古典新訳文庫、p.8)

 夜が裸になっていた...私も裸になりたい...夜の冷気に馬乗りになりたい...。ものすごい表現である。僕はこれ以上、この言葉を裸にすることはできないだろう。
 バタイユは率直だ。男は本当に裸になり、ズボンを脱いで自分の性器をつかむのだ。これは、男の肉欲を示す事実ではない。彼は全てを裸にしたいのである。いかがわしい女、冷たい夜の闇、そして自分自身をも。
 全てを裸にするために男は、身震いするほど猥褻で美しいマダム・エドワルダのもとをおとずれる。 そこで彼はを見たのだ。

「わかってるでしょう、私はなのよ......」(Ibid.,p.12)

 マダム・エドワルダは「神のような女」なのではない。彼女はなのだ。  

 (...)彼女は黒く、なんの飾り気もなく、穴のように不安をかきたてた。笑ってはいなかったし、それどころか、彼女を覆う衣の下に、もはや彼女が存在しないことさえ私ははっきりと悟ったのだ。そのとき__私のなかの酔いは完全に醒めはてて__「彼女」が嘘をついていなかったこと、「彼女」がであることを知った。彼女の存在は石のように理解できない単純さを持っていた。街の真っ只中にいながら、私は自分が山のなかで夜と化し、生命のない孤独に包まれている気がした。(Ibid.,p.17)

 人間は神ではない。しかしマダム・エドワルダは嘘をついていない。彼女は神であって神でない。でも彼女はなのだ。
 そんな馬鹿な話があるものか!ひとはそう言うであろう。しかしバタイユは努力する。ただ同時に、その努力が絶望的であるということも理解していた。そこがバタイユのすごいところだと思う。努力と挫折のうちに彷徨うのだ。

 (ここで私が裸にならねばならないとしたら、言葉をもてあそび、長々と文章を連ねることは失望をまねくだろう。私の語ることから、衣服と体裁をひきはがし、裸形に戻すことが誰にもできないというのなら、私が書くことは無意味になる。[それゆえ、すでに明白なことだが、私の努力は絶望的だ。私の目をくらませる__雷のように焼きつくす__閃光は、もしかしたら私の目だけを盲目にするのかもしれない]。(...))Ibid.,p.25)

 バタイユの境地にはまだまだ及ばない。バタイユの言葉から、ほんの少しのことしか感じ取れていない。ただ、夜の闇の孤独や、裸であることや、絶望すら辞さない向こう見ずな努力だけは感じ取れたような気がする。それがこの本の力だ。

Thursday, June 2, 2016

『眼球譚』を読む

 僕はいままで、本の読み方というものがあまりよくわからなかった。わからないまま読んでいたのだ。いや、今もわからないまま読んでいるかもしれない。本は暗記物ではない。とりわけ文学はそうであろう。暗記物でないとしたら何であろうか。どのように読めばいいのだろうか。たとえば、今まさに読んでいるこの一文は次の瞬間には過去のものとして塵のように堆積していくのであろうか。
 しかし、以前に比べて、心をとらえる断片に出会うことが少しずつではあるが増えてきた。そしてとりわけバタイユの文章には僕の心をとらえる力があるようだ。『眼球譚*』の一節である。

 ほかの人びとにとって、宇宙はまともなものなのでしょう。まともな人にはまともに見える、なぜなら、そういう人びとの目は去勢されているからです。だから人びとは淫らなものを恐れるのです。雄鶏の叫びを聞いても、星の散る空を見ても、なにひとつ不安など覚えない。要するに、味もそっけもない快楽でないかぎり、彼らは「肉の快楽」を味わうことができないのです。
 しかし、そうだとするならば、疑いの余地はありません。私は「肉の快楽」と呼ばれるものが好きではないのです。だって、味もそっけもないのですから。私が好むのは、人びとが「汚らわしい」と思うものです。私は人とは反対に、普通の放蕩ではぜんぜん満足できません。なぜなら、普通の放蕩はせいぜい放蕩を汚すだけで、いずれにせよ、真に純粋な気高い本質は、無傷のまま残されるからです。私が知る放蕩とは、私の肉体と思考を汚すだけでなく、放蕩を前にして私が思い描くすべてを汚し、とりわけ、星の散る宇宙を汚すものなのです……。(バタイユ『目玉の話』中条省平訳、2006、光文社古典新訳文庫、p.91) 

 「私」が草のなかに寝転がり、銀河を見上げながら夢想する場面だ。あからさまな変態性の吐露である。たしかにこの強烈な発言は、「まともな人びと」にとって露悪的な発言と取られるかもしれない。おまえは綺麗なものしか見ない、汚らわしいものを見ようとしない。その程度の放蕩では宇宙は綺麗なままである…。「まともな人びと」はあからさまな嫌悪感を示すであろう。
 しかし僕はこれを読んだ時、ある種の安らぎのような感覚を覚えたのである。そしてこの文章を美しいと思えた。僕はまともではないのか?バタイユのような人間であるのか…?
 おそらくそうではない。僕はこの「私」のいうような「まともな」人間であろう。僕は普段汚らわしいものに興味を持ったり、ましてや汚らわしいことをしているわけではないのだから…。(強いて言えば、僕は『眼球譚』を読もうとする程度には汚らわしい。)
 ではなぜそのような感覚を覚えたのか。バタイユがこの文章によって僕を、汚らわしいものを見ようとする運動のもとへ誘ったのだろうか…。

*『眼球譚』という書名が通例になっているようであるが、中条省平氏は『目玉の話』としている。その改変の理由が巻末の解説に記されており私はそれに同意するのだが、ここでは通例になっている『眼球譚』を採用した。くわしくは解説を参照されたい。

Monday, April 18, 2016

バタイユについて

 今回は最近勉強しているジョルジュ・バタイユについて自由に書いてみようと思う。
 バタイユという哲学者(思想家といった方がいいか)は、私にとって不思議な存在である。その激烈な思想に心惹かれるのではあるが、どうもどっぷり心酔できないという具合である。これは、学部でウィトゲンシュタインを研究していた時とは全く違う感覚であった。ウィトゲンシュタインの場合は、彼の哲学の方法論にどっぷり心酔し、ともすれば信者になりかねないという具合であった。(しかしこのことは、必ずしも私がバタイユに興味がないということを意味しない。現に私は、バタイユの思想に一定の仕方で興味を抱いている。)
 このように、とらえ方に違いが生じるのはなぜだろうか。あれこれ考えてみたのであるが、おそらく、バタイユの主体性に関する考え方がわれわれの理性にとって常軌を逸しているからであろう。
 バタイユの場合、彼の言う「内的体験」とか「非–知」という段階において、われわれの主体性は疑問に付されなければならない。つまり、私が〈私〉として存在している、というわれわれにとって自明なあり方を根本から問いなおさないと、人間のすべては見えない、ということである。理性的な主体性から逸脱した領域を体験によって行きぬかないとだめだ、(なぜなら、その逸脱した領域は、理性的な主体性によっては把握できない隠された領域であるため)ということだ。
しかし、正直なところ、そんなことが可能なのかと思ってしまうのである。それは単に思想レベルでの、机上の空論なのではないか。結局理性の側にとどまっているのではないか。そう疑ってしまうのである。だいいち、これはすでにバタイユに反論されているのだが、私はずっと生まれてこのかた、私は〈私〉でしかない、と確信してきた。バタイユは、われわれの自明なあり方が疑問に付されるなどとは考えもしないという、そのようなあり方が問題であるという。
 さて、ウィトゲンシュタインの場合はどうだったか。ウィトゲンシュタインは反対に、私の信念である、「私は〈私〉であり他の何者でもない。」ということを哲学的に考えるための格好の材料であった。事実ウィトゲンシュタインは、独我論の問題を徹底して取り上げているのだ。独我論は主体を疑問に付してしまったらそれはもはや独我論ではなくなるだろう。(卒業論文ではウィトゲンシュタインの独我論の問題をやりたかったのだが、諸事情により廃案になった。)要するに、私の哲学的な問題意識が、ウィトゲンシュタインのそれと似ていたのである。(問題意識が似通っていただけで、ウィトゲンシュタインほどの天才にはなれるわけがないのであるが。)
 バタイユの場合とウィトゲンシュタインの場合を比較してわかったことは、バタイユの場合は、主体性を崩壊させられるくらいの体験へと誘われたのだが、ウィトゲンシュタインはそのようなことはなかったということだ。したがって、私にとってバタイユは異物として捉えられたのだろう。主体性が疑われるような境地に少しでも足をふみいれるのが怖いのかもしれない。
 問題は、今後バタイユに対してどのように接して行くのか、である。異物を退けるというのはそれこそいちばんバタイユ的でない態度であろう。バタイユのよう価値転換的な考え方もあるのだと知ってしまったが最期、それに囚われ魅了されるしかないのかもしれない。