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Saturday, December 24, 2016

僕にとって音楽とは(自己分析)

 今年の九月に、一年間通った音楽大学を退学した。これは僕にとってひとつの挫折であったが、一方で、必然的であり、絶対に必要な経験でもあった。それはなぜか。自分なりの解釈があるので、ここに記そう。


 僕は小学生の時以来、22歳でピアノを始めるまで、ずっと音楽をやりたいと思っていた。サッカーや陸上競技に熱中したりもしたが、頭の中には常に音楽があった。音楽が至上の価値であったのだ。しかし僕は、成長すればするほど、自分が音楽が好きであるということにとてつもない恥じらいを覚えた。その恥じらいのために、両親に隠れてCDを聴いたりしていた。そのうちに、自分で演奏をしたいという願望が生まれてきたが、その強烈な恥じらいのために「自分は一生音楽に手を出さないまま死んでゆくのだ」と自分に言い聞かせていた。この強烈な欲望と恥じらいとの葛藤は何だったのだろう。
 僕の母親は、その経歴は必ずしも華やかではなかったが、職業としては音楽家であった。このことが、僕にとってきわめて重大な意味をもっていた。つまり僕は、母親の欲望する音楽という対象と同一化することを望んでいたのだ。そしてそこに性的な意味を付与していたのではないか。だから、あのような恥じらいを感じたのではないか。
 22歳の夏、自分自身によって音楽を表現したいという欲望の箍が外れた。上達は思いのほか早かったし、作曲理論を習って作曲科に入学したのだが、結局このように挫折してしまった。
 しかし今思えば、この挫折は僕にとって必然的であり、経験されるべき経験であった。僕は、母親の欲望の対象となるために音楽を欲望していたのだから。つまり母親に欲望されること、母親に承認されることが、僕の音楽を志す動機になっていたのだ。このことに自分自身が気づくためには、僕は一度挫折を経験しなければならなかったのだと思う。ラカンのいう「欲望とは他者の欲望である」という言葉が、これほど痛切に感じられる経験は今までに無い。僕の欲望は母親の欲望であったのだ。この先、ほんとうの音楽と出会うことができるかはまだわからない。僕は今、このような幻想の中をかいくぐって、その先の扉を開けたところだ。

Monday, November 7, 2016

ポール・チェンバース

 このひとが好きだ、このひとの音楽が好きだ、っていうひとが何人かいて、ポール・チェンバースはそのひとりだ。彼は、僕のイメージではジャズベーシストのイデアみたいなひとで、このひとがいなかったら僕はジャズの楽しさを半分くらいしか味わえなかったんじゃないかと思っている。彼の魅力はウォーキングベースと呼ばれる「ズン、ズン」と大地を勇ましく歩んでいくような躍動的な動きだ。そして、僕が思うにこういう彼の持ち味が出るのは、サイドメンに徹しているときだ(リーダー作の"Bass On Top"もいいけど)。縁の下の力持ちって感じ。彼は脇役に徹してこそ主役になる、と思う。とりわけすごいのがレッド・ガーランドの"Groovy"。A面のC-Jam Bluesはチェンバースの魅力が詰まってる。ガーランドの軽快なピアノを引き立てながら、かつ邪魔をしないで、でもノリも忘れず、自分の存在感もアピールできる。すごすぎです。これは、かのマイルス・デイヴィスの名盤"Kind Of Blue"にも言えることで、このアルバムが名盤として世に知られているのは、ポール・チェンバースが一役買っているからだと、ひそかに思っている。名曲So Whatでは、チェンバースのベースが緊張感を生み出して、みなはチェンバースとともに歩み出す。これほどワクワクするものはないね。 

Tuesday, October 18, 2016

ミハイル・プレトニョフ@10/17浜離宮朝日ホール

 僕が最も敬愛するピアニスト、ミハイル・プレトニョフのリサイタルに行ってきた。ここ1年ほどクラシックのコンサートに行かなかったが、久々のクラシック音楽の愉しみがプレトニョフ氏のリサイタルであるというのは、なんと幸せなことだろう。そしてプログラムはなんとオールラフマニノフ(!)。ピアニストの体力もさることながら、聴衆の集中力までもが必要とされる盛りだくさんなプログラムである。プログラムは前半が小品で、後半がソナタ第1番である。
 プレトニョフの解釈は基本的に自由奔放である。しかし、自由奔放なのは確かだが、彼の演奏は、音色のバリエーションの豊富さによって作品の構造的な魅力をも浮き彫りにするようなものでもあった。ときおりバッハを聴いているような気分にもなった。そして何よりも、響きを最優先に弾いているように思えた。響きが美しいことの条件は、常に音がクリアであることだ。プレトニョフはそのことにおいて常に完璧だ。それはペダルに頼らないということではなくて、ペダルの効果によって音の純度を犠牲にしないということだ。まさに神がかりのペダリングである。しかしこれは、彼の魅力の一面にすぎないと思う。もっと重要なことは、作品が作品の限界をこえるような事態がそこにあったということだ。
 以前カルロス・クライバーの演奏を聴いたときにも感じたことであるが、作品がその限界を超えるような演奏がごく稀にある。プレトニョフの演奏は常に予想を裏切る。そこには考えた形跡が感じられる。そのことに作為性やあざとさを感じるひともいるかもしれない。しかしクラシック音楽は、演奏家が積極的に既存の作品の価値から抜け出そうとしないと死んでしまうと思う。プレトニョフの音楽からは、そのような切迫した思いが感じられた。作品が作品の限界をこえて、新しい世界が開けていたのだ。これこそ創造的な行為ではないだろうか。それはかつてない種類の感動だった。感情が揺さぶられるのではない、理知的なものだった。

Friday, September 23, 2016

シューマンの幻想曲

 またクラシック音楽を楽しめるようになってきた。そのきっかけになった曲がシューマンの幻想曲である。僕はこの曲がたまらなく好きになった。そして端的にこの曲の魅力を誰かに伝えたいという思いがある。
 音楽理論を勉強している真っ最中だった一年前、この曲を弾いていた。その時も、僕はたしかにシューマンが好きだったし、弾いていて楽しいと感じていたことを記憶している。だが、僕はこの曲の意味がわからないでいた。というのも、この幻想曲は曲の展開の仕方が非常に自由であるからだ。その自由さのなかに秩序を見出そうとしていた。なぜここはこうなっているのか。なぜこのように弾かなければならないか。なぜ…?
 すると先生はこう言った。

「だってシューマンだもの」

 このひとことで、先生は僕よりもシューマンを理解していたと感じた。たしかに、先生は僕に比べ、分析的な理解はしていなかったかもしれない。しかし、曲の意味を感じとっていたのだ。これが、僕がいくらアナリーゼをしてもわからなかった理由だ。
 この曲の(とりわけ第一楽章の)魅力は展開の自由さにあると思う。つまり、これが形式として幻想曲であることによる自由さではなくて、シューマンであることの自由さである。曲のいたるところに瞬間的な激情の噴出や不条理があり、そこに秩序を見出すことは難しい。あるとすればそれは、シューマンのなかにあるのだ。 なぜここにこのパッセージが置かれるのかという問いは、シューマンにしか答えられない問いであろう。

Wednesday, August 10, 2016

音楽の脆弱性について

 近ごろは、音楽に対して以前ほど積極的に働きかけてはいない。なぜならば、音楽を勉強すればするほど、音楽に初めて出会ったときのあのほとばしるような情熱が忘れられていったからだ。しかしすでに、音楽が無くてはならないものになっていた。その意味では、僕は音楽に依存しているともいえる。
 だが、一度は音楽に激しく魅了されたのだ。そのときの有り様を、仮に以前のような形でなくとも、取り戻したいという気持ちがある。これは仕方のないことだ。
 僕があるひとつの音楽に初めて出会ったその時、僕はまさにその「今」しか眼中に無かった。なぜならばその「今」初めてそれを聴いたからだ。たとえば、小学校時代にベートーヴェンの交響曲を初めて耳にしたとき。交響曲第3番の冒頭があのように豊かに鳴り響いたのはまさにあの時であった。そしてその感動を取り戻すべく、僕はベートーヴェンを繰り返し聴いたのである。そののち、僕はベートーヴェンを繰り返し聴くことによって和声学を学んでいた。頭のなかでバス音に数字をふって自己流に解釈した。そしてそれは既存の和声学の行程に通ずるものであった。
 ベートーヴェンには僕の「幼年期の音楽的感動」が詰まっている。だから、「青年」となった今、ベートーヴェンを聴くと、僕の「幼年」が連想されるのだ。かつての記憶やイメージが、ベートーヴェンの音楽を飲み込んでいるのだ。音楽は時に強大な力を帯びるが、過去の記憶やイメージ、外的環境に音楽自身のイメージを占拠されやすいという脆弱性をも抱えていると思うのだ。
 このように、音楽自身が他のイメージに飲み込まれてしまう経験は何度となくある。村上春樹の『ノルウェイの森』を読む時はいつもグレイト・ジャズ・トリオの「アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード」をかけていたから、このアルバムを聴くといつも『ノルウェイの森』のイメージが思い出される。
 ヨハン・シュトラウスのワルツを聴いていた時期は、僕は音楽に対する夢と希望に溢れていた。自分の野心をシュトラウスのワルツに託したのだ。しかし危機に直面したときに、そのように作り上げられたイメージは、僕を落ち込ませるものになったのだ。
 もっと深刻な例を挙げよう。作曲のレッスンに緊張して不安に駆られていた時期に、レッスンではフランクのヴァイオリンソナタを研究していた。そしてそれ以後、フランクのヴァイオリンソナタを聴くと、その時の自分の神経質な負の感情が思い出されるようになってしまった。分析においては全く非の打ち所のないこの作品ですら、僕の音楽的感動とは程遠くなってしまったのだ。これは、僕がフランクを嫌いだという事を意味しないのではないか。
 今にいたる、僕が音楽を専門的に学んできた期間は、外的なイメージにやられるという音楽の弱さを痛感した期間でもあった。しかし、それが外的なイメージにやられるということを直感的に感じてしまうため、そこに「本物の音楽」とか「音楽そのもの」があると感じさせてしまうという魔力が音楽にはある。そこにいたるには、なかなか遠い道のりではないかという気がしている。しかし、悲観しているのではない。