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Tuesday, February 28, 2017

書くこと、語ること(2)

 「書くこと」や「語ること」とはいったいどのようなことなのだろうか。こうして文章を書いていると、いつも考える。「書くこと」や「語ること」とはつまり、「誰かに対して語りかけること」であろう。何か言葉を発したその瞬間に、それは他者へとひらかれることになるのだ。日記ですら、自分というひとりの他者に向けて書かれるものであるのだから。

 さて、今私はこうして、他者に向けて言葉を書いている。他者に向かって語りかけている。この事態は、他者がいなければ成り立たないものだ。その他者との関係について、問いなおしてみたいと思った。なぜならば、私の文章を読んでくれるかもしれない他者と、私との関係について考えなければ、私が誰かに向かって語りかけることの意味に対して、光が当たらなくなってしまうからだ。


 まず、何かを書くということは、それを誰かに読んでほしいという願望の現れである。誰かが読んでくれたときの喜びは忘れられない。これは、あらゆるひとにとって普遍的な喜びであることだろう。
 しかし、誰かに読まれることが、とてつもない喜びであるからこそ、「書くこと」と「読むこと」がある種の契約を結ぶようになる。私は、自分の文章が無条件的に読まれることを欲した。その瞬間に言葉たちは、交換可能な通貨と化したのだった。いや、それはもはや、「書くこと」と「読むこと」の等価交換ですらない。そのようにして読まれることは、「読み」の可能性を無にしてしまうからだ。自分の読んでほしいように、自分の思うがままに読まれることを欲すること。それは、自分という他者に向けて書くこと、ですらなく、自分に対して自分の言葉を同語反復的に発することではないだろうか。
 誰かに向けて書かれた言葉が、誰かによって読まれるかどうかは、皆目わからないのだ。これは、私の文章が取るに足らないものであるという理由から言っているのではない。それを判断するのは、まぎれもない他者なのである。

 しかし、それでもなお、なぜ私は書くのだろうか。この問いは依然として問いである。ただひとつ確実なのは、私が今このページに言葉を綴ったというそのことによって、これを読んでくれたひとがいたら、私はとても嬉しいということである。

書くこと、語ること(1)

Tuesday, September 13, 2016

書くこと、語ること(1)

 ここのところ、自分の中で変化が起きていていると感じる。それによって僕の脳は少し興奮しているみたいだ。本を読むのもままならない。ツイッターばかり見ているし、ブログばかり書いている。自分のうちに何か混沌としたものがあって、それが溢れ出しているような感覚だ。しかし、ひとたび理性的な自分によってその行為を反省すると、とても恥ずかしい気持ちになる。理性的な自分はその行為に何か理由を求める。「自分の内なる何かを表明することは、承認欲求に基づいている」などと…。まだ混沌のうちにとどまっている衝動的な自分が、このような理性的な自分に出会ったときに、自分のした行為を後悔するということが何度となくあるのだ。
 でも僕は、ほんの少しの何かを表明することに踏み切った(それを踏み切るまでにすでに踏み切っていた)衝動的な自分を擁護したいと思っている。なぜならばこの衝動的な自分は、自分がたしかに変化したこと、成長したことによって生まれてきた自分だからである。


 僕は今カウンセリングに通っているが、そこではクライアントの問題を解決に導くというカウンセリング本来の目的を脇におけば、ただ語ることと聴くことが繰り返されている。「ただ誰かに対して語ること」そのことに、自分をとりまく世界(他者)との何か根本的な意味でのつながりを感じた。語られたものが解決されるかとか理解されるかといった問題とは別に、語ることそのものの効用を考えたことが、僕のカウンセリングにおける学びだったといっても過言ではない。
 これは「書くこと」においても言えることなのではないだろうか。たとえばツイッターには、リプライやいいね機能によって他人とコミュニケーションを取り、互いに承認し合うという役割もたしかにある。しかしそこでは「何かを誰かにむけて書くこと」そのものの役割も担われているように思うのだ。どんなに無意味なつぶやきですら、誰かによって書かれたというそのことによってそれは神聖さを失わないのだ。
 ひとは何かを抱えているものだ。必ずしもネガティヴなものとはかぎらない。それはひとりひとり違うだろう。それをただ他人にむけて書くことや語ることで、それが世界との関わりを取り戻すたしかな足がかりになると思うのだ。
 さて、これで僕の衝動的な自己は擁護されただろうか。わからない。ただ、僕は今後も、自分の恥ずかしさも含めて書いたり語ったりするということに変わりはない。沈黙しないことだ。このブログもこのようなスタンスで書いていこうと思う。