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Thursday, January 12, 2017

『君の名は。』小論〜外傷をめぐって〜

 自分自身の力ではどうにもならないような外傷に、ひとはどのように対処したらよいのだろうか。それを拭い取ろうとして、「もう自分は悩まない。自分は解放されたのだ」と思い込むのは、根本的な解決にはならないし、外傷的体験は、またふとした時にかたちを変えて主体に侵襲してくるだろう。
 僕が新海誠監督の映画『君の名は。』に感じた違和感とは、災害(映画では隕石の衝突)による悲惨という主体にとっての「外傷」がそもそも無かったことにされていることだ。タイムスリップによって災害は回避され、ラストシーンで瀧と三葉は再び巡り会う。一方で、ラース・フォン・トリアーの『メランコリア』では、惑星メランコリアの衝突による世界の終焉という〈究極の外傷〉を享受するのだ。そしてそれは本当に地球に衝突してしまい、物語は終わる。(参考→『メランコリア』〜救済としての世界の終焉〜)『君の名は。』と『メランコリア』は、このように、外傷に対する主体のあり方という点において対照的だといえるのではないだろうか。
 外傷とは、主体にとって、〈操作不可能〉な〈他なるもの〉であるといえる。主体にとって、主体自身の力ではどうにもならないからこそ、それは主体に傷という痕跡を残すのである。『君の名は。』において、隕石の衝突という外傷(災害)は、想定されているにもかかわらず、そのできごとは存在しなかったことにされている。このような行為は、主体(今まさに外傷に直面する主体)が、〈操作不可能〉な〈他なるもの〉を操作することに他ならない。これは一見気持ちの良いことのように思われるかもしれない。主体に侵襲してくる〈他者〉を操作すること、つまりそれを排除することで、すでに主体が負っている傷、今まさに直面せざるをえない傷を、一瞬でも忘れることができるからだ。
 しかしこのような〈忘却〉は、真に主体の実存を引き受けていくことといえるのだろうか。むしろそれは、外傷を負った主体にとっては、暴力ともなりうるのではないか。『君の名は。』の物語は、傷を忘却することで救われるひとや、傷を忘却することができるひとにとっては、問題がないものかもしれない。しかし、外傷を背負ったひとや、それを忘れようとすればするほど忘れられなくて苦しんでいるようなひとにとっては、その傷口を開くことになるのではないだろうか。傷を負ったひとにとって、その傷を忘れることとは、アイデンティティを失うことでもあるのだ。

Wednesday, January 4, 2017

『奇跡の海』と『ダンサー・イン・ザ・ダーク』における贈与の問題

 今回は、ラース・フォン・トリアー監督の『奇跡の海』と『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を哲学的に重要な主題である〈贈与〉という観点から考えてみたいと思う。この二つの作品は、〈贈与〉という問題設定においてシンクロしていると思われる。
 注目すべきは二人の女性だ。つまり、『奇跡の海』のベス、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のセルマである。この二人の行為は〈自己犠牲的〉だと、これらの作品をみたひとは思うかもしれない。『奇跡の海』においてベスは、夫のヤンへの愛のために自らの身体を他の男性によって慰めた。そして最後は、自分の命とひきかえにヤンの命が救われるという〈奇跡〉が起こされたのである。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』においてセルマは、息子の失明を防ぐために死刑を受け入れる(友人のキャシーは息子の手術費用で弁護士を雇うことを勧めたが彼女はそれを拒否した)。彼女にとって最も大事なことは、自分の命ではなく、息子の眼だったのだ。
 この、一見すると自己犠牲的に見える二人の行為は、本当に自己犠牲といえるのだろうか。
 まず、自己犠牲とはどのような行為であるか、考えてみよう。自己犠牲とは、相手に対して自分の内なる何かを犠牲にすることで他者に与える行為であろう。自分を犠牲にすることとは、自分の〈欲望〉を犠牲にすることである。自己犠牲においては、自身の内的なエネルギー(欲望)に忠実ではないのだ。では、贈与とはどのようなものであるか。バタイユはフランスの社会学者マルセル・モースに言及してこのようにいう。
 「理想的なかたちは」とモースは指摘している、「ポトラッチを与えて、返報を受けないことであろう。」この理想は慣習の中に可能な対応物を見出せぬような或る種の破壊行為を行なうことによって実現される。(「消費の概念」『呪われた部分』 ジョルジュ・バタイユ著作集、生田耕作訳、二見書房、1973、pp.275-276)
 ここでいわれているのは、〈純粋な贈与〉である。そしてそれは「可能な対応物を見出せぬ」ために、一方的な贈与となる。ポトラッチにおいては、相手よりより多く贈与したほうが勝者となる。つまり、贈与行為が各人の内的エネルギー(欲望)にもとづいているのだ。
 またバタイユは、このような一方的な贈与を、太陽のそれになぞらえる。
 生命の最も普遍的な条件について簡単に触れておきたい。決定的重要性をもつ一事実に注意を惹くだけにとどめよう。つまり太陽エネルギーがその過剰発展の起源であるということだ。われわれの富の源泉と本質は日光のなかで与えられるが、太陽のほうは返報なしにエネルギーを──富を──配分する。太陽は与えるだけでけっして受け取らない。(Ibid.p.35)
 このようなバタイユ的な極限の贈与を念頭に置くと、この二人の行為の内実が明らかになる。つまり、ベスとセルマの二人は、内的エネルギー、つまり〈己れの欲望〉を犠牲にしなかったのだ。であるから、彼女らの行為は〈自己犠牲〉ではなく〈純粋な贈与〉である。彼女らは〈己れの欲望〉に突き動かされて愛する者に贈与したのである。そしてその内実は、「可能な対応物を見出せない」ところの〈自己破壊〉であり〈死〉であったのだ。
 付言しておきたいのは、二作品とも、贈与された側のことがあまりえがかれていないということだ。『ダンサー〜』においては息子よりも「セルマの死」に焦点が当てられている。『奇跡の海』においてはむしろ、〈奇跡〉が起きた後の、息を吹き返したヤンの清々しい表情が見られる。これらのことは、贈与行為によって相手側に〈負い目〉が生じなかったということではないだろうか。バタイユのいう〈太陽の贈与〉がなされたということの証左ではないだろうか。 

Monday, December 5, 2016

『イディオッツ』における自己愛としての自覚

 以前の記事において、ラース・フォン・トリアーの『イディオッツ』に言及して、自覚(露悪性の自覚)の絶対視を批判したが、今回はその内実をさらに掘り下げてみたいと思う。自覚というのは、以下の記事で言われているような「内省的な態度、またそれを誇る意識」である。「自分のことがよく分かっている」ということが、何よりの誇りなのである。

「たとえ自分がクズであっても、そのことを自覚している分だけ自分は賢明だ」という論理である。これはある意味、「無知の知」にも通じるところがある。自分に対するメタ認知を高級な思考だとみなすのである。
「自傷的自己愛」の表出としての自虐 - hesperas 
http://dismal-dusk.hatenablog.com

 このように、じぶんの思考にいかなる場合にも至上の価値を見出すという自己愛としての自覚が、『イディオッツ』にもみとめられる。作品中の「イディオッツ」という集団は、障害者のふりをすることで、健常者の偽善(それが存在すればの話であるが)を暴こうとするのだが、そもそも彼らの行為も、偽善に帰着することは明らかである。しかし、彼らはそのことを、重々承知しているのだ。彼らにとって最も重要なのは、「自分たちは誰よりも自分たちのことがよくわかっている」といういわば「無知の知」である自覚的態度のほうなのだ。
 さて、僕の『イディオッツ』の解釈はこうである。つまり、『イディオッツ』はこのような露悪的自己愛を告発しているのではないか。僕にはこの作品の「思わず目を背けたくなるような」映像の数々は、我々に「露悪的自己愛はこんなにも醜悪でありうるのに、それでも自覚を至上の価値とするのか」と問いかけているように思えてならない。それらの映像は、前述の記事の著者である夕鬱氏が以下のように投げかけた問いに対して、どこまでも批判的である。

 (…)「自分の考えていることは自分が誰よりもよく分かっているとは限らない」と念頭に置いてみることで、「自分がダメなことは自分自身が誰よりもよく知っている」という意識が徐々に溶けていくこともあるかもしれない。 しかしその場合も、「私は『自分の考えていることは自分が誰よりもよく分かっているとは限らない』ことを知っている」という、よりメタレベルの高い認知が新たに自己愛の担保となってしまうのかもしれない。このようなメタ認知は無限に続き終わりが無いのだろうか。だとすれば、私たちは自己愛の担保を無限に備えていることになるのだろうか。
「自傷的自己愛」の表出としての自虐 - hesperas

 このようなメタ認知を一度認めてしまうと、どんな醜悪なことであっても「自分自身のことを客観的に見ていれば」という条件付きで許されてしまうことになる。そしてその客観性の尺度はどこまでも自分であり、自分という神である。*
*しかし、この夕鬱氏の問いかけも、おそらく自身が自傷的自己愛に陥るのを防ぐための配慮に基づいているだけのようでもあるが。

Wednesday, November 16, 2016

映画を好きであるとはどのようなことか

 僕は映画が好きである。とりわけラース・フォン・トリアーの映画が異常なほど好きである。そう自分では思っている。しかし、本当にそうなのか。そう問わずにはいられないのだ。なぜならば、僕がラース・フォン・トリアーの作品のどのようなところが好きなのか、いまだによくわからないからだ。今までこのブログでもトリアーについて書いてきたけれど、こうして文章にすることで、作品に対する説明を与えることはできるが、自分が作品に強く惹かれ突き動かされたことの内実はいつまでたっても宙に浮いたままである。これは映画に限った話ではないかもしれない。たとえば、自分の恋人をなぜ好きなのかわからない、ということはよくある。そして、「顔が好き」、「性格が好き」、など、様々な理由づけをすることはできるが、好きということそのものの内実はいつまでたってもわからず、ついには「自分は本当に恋人のことが好きなのか」と自問自答するというのは、恋の苦悩のひとつの姿であろう。いや、恋愛の問題に関してはおそらく異論はあるだろうが、映画に関しては、僕はまさにこのような葛藤を抱えているのだ。
 映画理論家のクリスチャン・メッツは『映画と精神分析』において、好きな映画に関する普遍的言述について語っている。精神分析にもとづいた、かなり鋭利な主張だ。
 普遍的言述とは、恐怖症に類する(また同時に恐怖症予防ともいえる)一種の前駆的構築作業であり、好きな映画を害する可能性のあるすべてのものに対し前もって修復作業を行なっておくことだといえる。また、それは時に迫害的な逆流を伴うにしても、抑鬱的な行動であることに変わりなく、映画愛好家自身の趣味が今後変わるかもしれぬことに対しての無意識的防御であり、多少とも逆襲的要素の混じりあった、万が一にそなえての防衛である。表面的には理論的言述の特徴をそなえつつも、実際のところ問題となるのは、偏愛する映画(これだけが唯一、真に重要なもの)の周囲の土地を占領し、攻撃者がやってくる可能性のある道をすべて閉鎖することである。(『映画と精神分析 想像的シニフィアン』鹿島茂訳、1981、白水社、p.25)
 つまり、この主張によると、僕が普遍的言述(厳密には普遍的であるようにみえる言述)を繰り返しているのは、自分の偏愛するトリアー作品を嫌いにならないようにするためだということになる。たしかに、僕が映画を好んでみるようになった初期のころにトリアーの作品の多くをみたし、それが僕の映画的嗜好の基準になっているのかもしれない。メッツの主張は、僕の抱えていた「本当に好きなのかどうか」という葛藤を一挙に鎮静化する力を持っていた。
 しかし、それでも依然として残る疑問がある。それは、「現に、まさにこの映画を好きだというこの事実はどのようなことか」ということだ。僕がラース・フォン・トリアーの映画に対して見出している比類のなさとはいったい…。それを偏愛する当の理由は未だ謎のままである。精神分析的には、欲求は充足されうるが、欲望は充足されないという。「本当に好き」という状態がありえないからだ。僕が好きなものは、僕に、それについてもっともっと知りたいと思わせ、充足をいつまでも先送りにする。そのことが、本当に好きということなのかもしれない。

Tuesday, November 15, 2016

「ドグマ95」について

 「ドグマ95」は1995年にラース・フォン・トリアーらによって提唱された映画運動である。そしてこれは、「純潔の誓い」という10個の規則によって縛られている。

「純潔の誓い」
1.撮影はすべてロケーション撮影によること。
2.スタジオのセット撮影を禁じる。
3.映像と関係のないところで作られた音(効果音など)をのせてはならない。
4.カメラは必ず手持ちによること。映画はカラーであること。照明効果は禁止。
5.光学合成やフィルターを禁止する。
6.表面的なアクションは許されない(殺人、武器の使用などは起きてはならない)。
7.時間的、地理的な乖離は許されない(つまり今、ここで起こっていることしか描いてはいけない。回想シーンなどの禁止である)。
8.ジャンル映画を禁止する。
9.最終的なフォーマットは35mmフィルムであること。
10.監督の名前はスタッフロールなどにクレジットしてはいけない。
(「ドグマ95」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』、2014年3月28日 (金) 04:54 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

 これはいったい何を意味しているのだろうか。トリアーはこれにより何を意図しているのだろうか。僕なりに考えてみたいと思う。
 まず基本的なことは、これは「ルール」であるということだ。自由であるはずの映画製作において、ルールを設けているのだ。僕がまず連想したのは、たとえば、トランプのゲーム「大富豪」であらかじめルールを決める行為だ。「大富豪」にはいろいろなローカルルールが存在する。数あるローカルルールの中から、統一された規則を選び出さなければならない。しかし、究極的には、選んだまさにそのルールを選ばなければならないという根拠はない。つまり、ルールは何だって良いのだ。「ドグマ95」にもこのようなことがいえる。「純潔の誓い」の中に、何か絶対的なものがあるとは思えない。これらのルールが守られなかったからといって、「映画として」大きな問題が起きるとは考えられないのである。問題があるとすれば、それは規則内のことであって、映画という大きな枠組みにおいては、関係がない。すなわち、これは「ゲームの」ルールなのだ。これは、たとえば学校や社会のルールとは根本的に性格を異にするものだ。学校や社会のルールは共同体を縛るものであるが、ゲームのルールは共同体を活性化させる。そして、繰り返しになるが、ルール自体にはあまり意味がない(もっとも、ルールひとつひとつの個別性においては意味があるのだが)。もっと言えば、意味がないというそのことがルールの意味になっている。
 「黄金の心」三部作のひとつである『イディオッツ』は「ドグマ95」にしたがって製作された作品である。『イディオッツ』は、障害者のふりをして人びとの偽善を暴くために結成されたある集団の物語だ。いわば、そのようなゲームに興じる集団だ。そしてそれはゲームでなければならない。彼らの、「障害者のふりをする」というルールが意味を持つためには、彼らの行為がゲームでなければならないのだ。なぜならば、たとえば「大富豪」のルールが意味を持つためには、それが「大富豪」というゲームでなければならないからである。規則を規則として成り立たせるためには、それがゲームであることが必要不可欠だ。
 映画とは何か。映画とは共同体を縛るものではない。そうであってはならない。映画とはもっと自由な創造的行為であろう。とすれば、映画はひとつのゲームだといえないか。「ドグマ95」は、ゲームのなかで意味を持つ。

Tuesday, November 1, 2016

『奇跡の海』考

 僕はラース・フォン・トリアーの映画が好きだ。しかし、それぞれの作品に登場する主人公はみな、不幸なひとばかりである。というよりもそれは、幸せになろうとしているにもかかわらず、不幸に予定調和的に転落してゆく姿だ。不幸なひとを目の当たりにすると、その光景を愛することをためらうのだ。
 『奇跡の海』と『ダンサー・イン・ザ・ダーク』においては、このような転落してゆく悲惨な主人公の姿が、強烈なイメージとして残っている。とりわけ『奇跡の海』は、「不幸な主人公」という点では抜きん出ている。
 主人公のベスは下半身不随になった夫のヤンへの愛ゆえに、ヤンに愛人をつくって愛し合うことを強いられても、受け入れる。彼女は常に神に祈った。その篤き信仰心ゆえに、自分におそいかかるあらゆる不幸をも、神の与える試練だとした。彼女はヤンのために祈った。そして、いよいよヤンの命が危ないという時に、ベスは怖い男たちの元へ行き暴力を受けて身を滅ぼす。ところが、彼女の祈りは奇跡を生み出した。ヤンは元どおりになったのだ。
 この物語が悲惨なのは、ベスの死とひきかえに、奇跡が起きてしまったということだ。一緒に死ぬことができたほうが、どんなに幸福だったことだろう。なぜなら、ヤンはベス自身だからだ。
 
 僕は自分に問うた。このような主人公の悲惨な姿を見て、自分は喜んでいるだけではないのか、他人の不幸を眺めて快楽を感じているのではないか、ラース・フォン・トリアーの映画をかりにも好きだなんて、言ってはいけないのではないか、と。
 そんなときに、Twitterでこんなツイートを見つけた。

「怖い映画を人はどうして楽しめるのか」という問いに「他人の不幸を眺める快楽があるから」と答えるのは,慧眼どころかまちがっていると思う.少なくとも怖い映画に特有の説明ができていない.というのは,他人の不幸を眺める快楽がある映画には,怖くないものだってたくさんあるからだ.
— kugyo W (@pubkugyo) 2016年10月14日

 このような主張を、僕の発した問いに当てはめてみる。つまり、「ラース・フォン・トリアーの映画になぜ惹かれるのか」という問いに「他人の不幸を眺める快楽があるからだ」と答えるのはまちがっている。他人の不幸を眺める快楽のある映画など、トリアーの作品以外にもあふれているのだから。
 たしかに、トリアー作品において、他人の不幸を眺める場面は多々あろう。しかし、トリアー作品の本質はそこには無くて、もっとトリアー作品固有のものだと想像される。その「固有のもの」が、とてつもなく倒錯的である可能性もあるのだが。僕はそれをずっと探してゆきたいと思っている。

Saturday, October 29, 2016

『君の名は。』と『イディオッツ』〜〈わかるひとにはわかる〉のか〜

『君の名は。』を観た。鑑賞直後は何も感じるものがなかったが、ジワジワと憂うつな感情が押し寄せてきた。映像やストーリー、RADWIMPSの音楽、何から何までキラキラしていたから、僕はこの美しい作品を純粋に見ることができなかったみたいだ。そのことで、自分が恥ずかしくなった。#映画— Kazuki (@tokiokoetewitt) 2016年9月3日

この映画が好きな多くの人のように、人と人とが繋がることのステキさを直視できるような純粋な人でありたい。バカにしてるって思われるのかもしれないし僕はそうやって俯瞰してしまってるのだろうけど、ルサンチマン的な歪んだ気持ちとともにそういうステキさに本当に憧れているし屈服している。#映画Kazuki (@tokiokoetewitt) 2016年9月3日

 これは、僕が新海誠監督の『君の名は。』を観たときの感想である。今見ると少し恥ずかしさを感じるが、事実として、僕はこのように感じたのだ。
 『君の名は。』に対して感じたものは、僕がラース・フォン・トリアーのそれぞれの作品、とりわけ『イディオッツ』に対して感じたものと似ていた。似ていたが、それは同じではない(むしろ対極的なものともいえる)。それは、〈わかるひとにはわかる〉というものだ。この二作品に関しては、「つまらない」という感情ではなく(つまらない作品に興味はないのだから)、作品に対する自分の「遠さ」を感じた。そのおもしろさは、文字通り、〈わかるひとにはわかる〉のであり、〈僕にはわからない〉類のものだ。この感覚の内実を、二作品を比較することであきらかにして、できれば多少なりとも乗り越えることができればと思う。
 まずは『イディオッツ』から見てみよう。『イディオッツ』は、おおざっぱに言ってしまえば、健常者が障害者のふりをして、健常者が寛容の精神から障害者をみることの偽善を暴き出す、そういう集団をえがいている。これは端的に露悪的だ。なぜなら彼らは健常者だからだ。そしてこの作品におけるある種の暴力性とは、「社会に蔓延る偽善に鈍感なひと、人間の闇の部分を知らないひとには、この作品の意味がわからないだろう」ということだ。トリアーの作品は往々にして闇が深いゆえに、常にこの露悪性がつきまとう。
 『君の名は。』においては、表面的にはトリアー的な意味での露悪性は皆無だ。闇を美しいもの(他者としての君)へと昇華するという点で、むしろ普遍的なものに対する追求だといえる。ただその普遍性を追いもとめる無垢なものが、少数者、つまり作品にある遠さを感じるひとにとって、囚われとなり暴力となるという点で、『君の名は。』は露悪性において『イディオッツ』の対極にありながら、通底しているように思った。しかしこれでは単なる多数者へのルサンチマンの吐露でしかない。これでは永遠に『君の名は。』には近づけない。
 ここでわれわれは(僕は)『イディオッツ』に学ぶことができる。『イディオッツ』 は、少数者のルサンチマンを満足させるための、精神的オナニズムのための作品ではないということだ。このことは、『イディオッツ』の露悪性が自己矛盾におちいっていることからも明らかだ。つまり、障害者のふりをして世の偽善をあばく、という行為も結局は偽善に帰着するのではないか。彼らは健常者なのだから。彼らは、障害者の「ふりをする」という偽善的行為を〈自覚して〉行っているにすぎない。自覚しているということに価値を見出さないかぎり、『イディオッツ』は自己矛盾におちいるのだ。*1
 このような〈わかるひとにはわかる〉、つまり〈私だけが世界を正しくみている〉という視点は、結局自己矛盾におちいるのではないか。たとえば、〈私だけが真の光(闇)を見ている〉というひとは、ほんとうにそれを見ることができているのだろうか。それを判断するのは自分しかいないのではないか。トリアーはこの自己矛盾を、映画というある種の「遊び」のなかで浮き彫りにしているように思う。
 さて、この自己矛盾におちいる〈わかるひとにはわかる〉 という視点は、その立ち位置がわかる側であれわからない側であれ、つきつめると排除に行き着くだろう。つまり「わかるひとにはわかるのだから、わからない僕は彼らとは絶対的に違う人間である」と思い込みかねないということだ。この思い込みによって作品のもつ魅力を捉え損ねているとしたらそれは勿体のないことであろう。『イディオッツ』に「誠実さ」があるとするならば、それは僕たちの『君の名は。』に対する誠実さと、通じ合うところがあるのではないだろうか。

Thursday, October 27, 2016

絶対に安全な感覚

 ラース・フォン・トリアーの映画は僕に衝撃を与えた。僕はそれまでずっと他の誰かになろうとしていた。すでに失われてしまっている何かを追い求めてしまっていた。でも、彼の映画の主人公はみな生きたいように生きている。それが最終的に破滅という形態をとろうとも。むしろ、自分が生きたいように生きることは、究極的には破滅に向かうのかもしれない。
 しかし、なぜか僕は、ことごとく破滅に向かう彼の作品から「ただ生きていればそれでいい」という肯定的な力、「絶対に安全な感覚」を感じとった。これはもちろん、「安泰」という意味ではなくて、むしろ「現実感」に近いように思う。生きているという感覚、生きていくうえでの基盤となるようなものだ。
 僕はこの世に生まれついてから、生きることを課せられている。自殺をしたくなるような大きな悲しみもなければ、人生はハッピーだと言えるほど生きるのは楽ではない。でも、死ぬ理由が全くないし、ハッピーなことだって僕のまわりには溢れているから、僕はこれからも生きて行きたい。すなわち生きて行かねばならない。生きるとは苦難に立ち向かうことでもある。そして、苦難に立ち向かうには、このような「絶対に安全な感覚」が不可欠であるように思うのだ。これは、苦難に立ち向かうための準備ではない、「自分が生きているという大前提」である。ただしこれは、生きることが美しいことであるとか、命は尊いとかいう話とは全く別次元のことだ。トリアーの作品は、そのような価値判断とは無縁だ。それは、生きることの肯定ですらないような、全てを相対化してその全てをまるごと肯定するような肯定なのだ。

Saturday, October 22, 2016

ラース・フォントリアーの映画に救いはあるか

 ラース・フォン・トリアーの絶望的な作品を初めて観て以来、「彼の作品に救いはあるか」ということをずっと考えている。答えが出るとは到底思えない、そして、答えを出そうなどとも思っていないのだが、ここにほんの少しの思考の軌跡を書くことも塵ほどの価値はあろうと思われる。
 トリアーはほとんどどの作品においても、常に最悪を見据えている。たとえば『メランコリア』においては、最悪としての「世界の終焉」がある種のショック療法として絶望者に働きかけるということを見た。
 そして、彼の作品の「最悪」は、彼のうつ病的なものに裏付けられていると言ってよい。たとえば斎藤環はこのように述べる。

 ラース・フォン・トリアーは、自他共に認める「うつ病」圏の映像作家だ。
 彼の発言として知られる「基本的に人生におけるすべてが怖い」という言葉は、真のうつ状態を実際に体験したものならではのものだろう。ただし、その「うつ」は、最近流行の軽症タイプのものではない。おそらくは循環気質圏内のものでもない。彼の「うつは、そう言って良ければ古典的タイプのうつ病、いわゆるメランコリー親和型のうつ病に限りなく近いもののように思われる。*1

 「人生におけるすべてが怖い」という感覚は、まさに「最悪」の状態だ。世界の中の部分的なものから感じる恐怖は「不安」であったり「症状」であったりするだろうが、すべてにおいて絶望していればそれは「最悪」である。出口なしの状態だ。このような彼のパーソナリティは、彼の作品を理解する上でかなり重要な要素だ。なぜなら、彼の作品を作る動機が、絶望者としての彼を救うことだと思われるからだ。トリアーの作品には、彼自身の障害を反映しているのか、障害者と見受けられるような人物がよく登場する。*2「感動ポルノ」だとか「障害者を美化している」とかいう感想をたまに見るが、それは当たらない。なぜなら、彼は自分のために映画を撮っているからだ。そこに障害者がいるとすればそれは彼自身で、彼の作品は彼の治療でしかないのだ。
 この絶望状態は最悪であるがゆえに、救いがない。しかし、救いがなくても生きてゆかねばならない。救いがないことから救いを見出すという試み。彼の作品はある種の宗教的な次元に接触しているのではないかと思われる。たとえば、佐々木敦は彼の作品の救済について、このように言う。

 ラース・フォン・トリアーの映画、とりわけ「鬱三部作」は、一言でいうならば、救済とその不可能性を、ただそれのみを語っている。その無理、その無効、その無意味を。それは彼自身が体験した鬱と、そのセラピーから発想されたものかもしれない。それは結局わからない。だが彼は明らかに、誰かを(自分を)救おうとする者に無能を宣告するために、これらの物語を語っている。この意味で、トリアーの映画はどれも、徹底的に倒錯した宗教映画だと言える。救い主は嗤われるためにのみ、彼の映画に召喚されているのである。*3

 このような見方を受け入れるならば、トリアーそのひとは、「自分を救済するために映画を作り、そしてその作品はその救済を否定するようなものである」ということになる。いわば映画による、壮大な自傷行為である。
 絶望するものは、いったんは自分を救おうとする。しかし、トリアー作品においては、それがいつも挫折させられる。いったんは救われるが、すぐに、現実へと、奈落の底へと突き落とされるのだ。
 「ラース・フォン・トリアーの映画に救いはあるか」、あるひとたちはこれに「Yes」と答えるだろう。僕も含めて。しかしトリアーの作品は、それに「No」を突きつけるのだ。ここに葛藤がある。救いを求めて戦って、打ちのめされる。この不断の運動が、トリアーの映画のもつ力ではないかと思う。しかし、この否定の力に屈してはいられない。僕はトリアーの作品に、田口ランディ氏の次のような言葉を投げかけ続けたいと思う。

 なにも否定しない、なにも肯定しない。相対化してみせるだけ。そんなラース・フォン・トリアーの作品は、悲惨がゆえに、救われる。*4
*1:「欲望の倫理、またはセクシュアリティ」(『ユリイカ』2014年10月号、青土社、p.85)
*2:たとえば『奇跡の海』のベス、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のセルマ、『メランコリア』のジャスティンなど。
*3:「救い主が嗤われるまで いわゆる「鬱三部作」について」(前掲書、p.74)
*4:「オーロラの彼方に ニンフォマニアック 聖なるものは俗なるもの」(前掲書、p.108)

Monday, September 12, 2016

『メランコリア』〜救済としての世界の終焉〜

 このブログでも何度も書いていることだが、僕自身はラース・フォン・トリアーの作品群をみて救われたという思いがある。誤解を恐れずに言えば「生きる希望を得た」とすら思える。そしてなぜそのように感じるのか、ということをずっと考えている。なぜなら、多くの作品において物語は「最悪の事態」に向かっているからだ。最悪の事態からなぜ、希望が生まれるのか。

 ここで取り上げる『メランコリア』は、トリアー自身の鬱病的なものが前面に出ている作品である。病というある種の絶望をえがくことから何が生まれるか、ということを考えるには格好の作品だと思う。

 『メランコリア』の物語は二部構成で、前半がキルスティン・ダンスト演じるジャスティン、後半がシャルロット・ゲンズブール演じるクレアに焦点を当てている。前半、ジャスティンは鬱(メランコリア)を抱えていて周囲に馴染めず、その不和に苦しんでいるが、後半になると「メランコリア」という惑星が地球に接近するにつれて彼女は冷静さを取り戻し、逆に健常者のクレアはパニックに陥っていく。そして最後には惑星メランコリアは地球に衝突し、世界は滅亡する。究極のバッドエンドである。
 しかしトリアーは興味深いことに、この『メランコリア』におけるラストを「ハッピーエンド」だとしている。これは彼の鬱病的なパーソナリティに関係していることだ。つまり、これはジャスティンの鬱病が回復していくストーリーなのだ。クレアは「メランコリア」によって、逆に病的な状態へと傾いていったが、ジャスティンにおいては、惑星の衝突という究極の悲劇を予測するにつれて病から解放されていった。このラストが「ハッピーエンド」たる所以はここにある。
 評論家の佐々木敦氏がとても興味深いことを書いている。

 いささかデリケートな話題なので気を遣うが、私の知人に、長年鬱病(的なもの)に悩まされていたが、「2011年3月11日」以後に急に元気になった、という人が居た。そのメカニズムのほんとうのところは知るところではないが、同じような話は当時、幾度か耳にしたように思う。だがジャスティンの復調は、それらとはやはり違う。災厄や危機と、終焉や滅亡は異なるからである。だがひとつの共通点は、自分自身の罪や責任からは完全に切り離された、紛れもなく具体的な悲劇、無根拠で不条理な悲劇こそが、具体的でない、説明の不可能な、つまり気分としての鬱に対する、一種のショック療法として作用することがある、ということである。
(『ユリイカ』2014年10月号、青土社、p.73)

 このように、この作品においては「最悪の事態」としての世界の終焉が、救済としての力を持つのである。鬱病患者は世界に対して絶望しているがゆえに、つねに最悪の事態を見据えている。ジャスティンも例にもれない。「メランコリア」の接近はジャスティンの冷静さを増幅させるかのようですらあった。ジャスティンの強さは僕に「何があっても絶対に安全な感覚」を与えたように思う。安直な希望などよりもずっと多く。なぜならば、世界が終焉を迎えても、ジャスティンは強くあったからだ。

 以上のことが、僕がこの作品によって救われたということの「個人的な内実」である。誰かほかのひとに「この作品は救済をえがいたものではない。これは絶望の物語だ」などと言われたとしても、依然として僕が救われたことには変わりはない。しかし深いところでは、トリアーのいう「ハッピーエンド」はある種のレトリックにすぎない、という疑念も残ることは事実だ。つまり、これは事実としてはバッドエンドであり、彼は「このバッドエンドは〈実は〉ハッピーエンドだ」と言っているにすぎないからである。これを文字通りに解釈し、世界の終わりがハッピーだとするなら生きている価値などゼロであり、早々と自殺をすればいいだけの話だ。しかし、全ての価値を相対化するわけでもなく、「ハッピーエンド」だと言い張る。彼はミステリアスなままに、おどけてみせるのだ。こういうところにトリアーの喜劇性があると思うのだが、いかがだろうか。

強調は引用者による

Wednesday, August 31, 2016

『アンチクライスト』における治療とは

 『アンチクライスト』は難解なラース・フォン・トリアーの作品のなかでも、特に一筋縄ではいかない作品だ。だから、作品の魅力をすべて語ることはここではできないのだが、僕なりにこの作品から感じ取ったことを記したいと思う。
 ある夫婦が性行為の最中に子どもを見逃して死なせてしまう。妻(シャルロット・ゲンズブール)はそのことで心に深い傷を負う。セラピストの夫(ウィレム・デフォー)は彼女にセラピーを施すのだが、事態はどんどん悪化していく…。
 このストーリーによってトリアーが示したことのひとつは、「トラウマ(心の傷)」に対する態度であると思う。つまり、彼女は子どもを死なせたことがトラウマになり恐怖を覚えたが、夫はそれを忘れさせるどころかその恐怖にあえて対峙するという暴露療法(エクスポージャー)的なセラピーを行っている。現に彼らは、性行為によって子どもを死なせたのにもかかわらず、その後もセックスばかりしていた(最終的にはそれは暴力まで発展するのであるが)。これは「トラウマを癒す単純な手段はない。トラウマを癒すにはトラウマに対峙しなければならない」ということを示唆していると思った。
 僕自身も性行為に対して、トラウマティックな感情がある。セックスに対して恐怖感がある。しかしその恐怖感は、その恐怖感ゆえに僕を魅了するのだ。それに対峙することがある種の癒しになる。恐怖感というのはこのような自己治療的な本性があるのではないかと思うのだ。そしてこの映画のストーリーによってこの考えがより強固なものになった。
 しかし、トリアーの作品が単純でないのは、その治療が単純な癒しではないということだ。それは「癒しなんてそもそもない」のでもないし、逆に「救いがないことが癒しである」のでもないだろう。治療をひとたび語ってしまうと、何かが抜け落ちてしまう感覚がある。本質的に、治療というのは語りえないものなのかもしれない。

Wednesday, August 17, 2016

『ドッグヴィル』〜ひとは倫理的であろうとするほど傲慢さを免れないのか〜

ラース・フォン・トリアーの映画「ドッグヴィル」をみた。僕がこの映画をみて考えさせられたことはこれである。「ひとは倫理的であろうとするほど傲慢さを免れないのか」……。
 ギャングに追われたグレース(ニコール・キッドマン)は、「ドッグヴィル」という村に逃げ込んできた。彼女は村人たちに受け入れられようとするのに必死になる。村人たちは次第に、彼女をかくまってやった見返りを求めるようになるし、彼女はそれでも受け入れられるためにその要求をのむ。そしてその要求は次第にエゴイスティックなものになっていった(彼女は男たちの娼婦にすらなった!)。そして最終的にギャングたちがグレースを連れ戻しに来る。グレースはギャングの親玉の娘だったのだ(グレースは父親と仲違いして、この村にやってきたのだ)。グレースの父親は、「グレースが村人たちを無条件に赦した」ことを傲慢だとして糾弾した。つまり、「グレースは村人たちを「寛容」の精神から見下している、彼らと同じ道徳的水準に立つならば彼らに罰を与えなければならない」と。彼らのやったことは「悪いこと」なのだから……。そしてグレースは父親に従う。グレースとギャングたちは、村を焼き尽くし、村人たちを皆殺しにしたのだ。 
 人は他人より倫理的であろうとするほど傲慢さを免れない、という身も蓋もなさ。グレースは倫理的であろうと「努力」した。「私が同じ立場だったならば、同じことをするだろうから」という理由で彼らを赦したのだ。しかし、「赦すこと」が相手より自分が上に立つという意味で傲慢さであるのなら、それを断罪することも相手より倫理的に上に立つことになり、傲慢さを免れないだろう。「自分は他人より傲慢ではない」と思いながらできるだけ倫理的に振る舞う姿勢がそもそも傲慢である、というジレンマを打破できない。どうしたらいいのだろうか。  
 これをみた数日後、飲みの席で僕を含めた2人である1人の傲慢さを糾弾していた時、同じことを思った。エゴイスティックな感情の表出は、傲慢さとして退けられる。僕らは彼をこう糾弾した。「僕らは自分のエゴイスティックな感情をあまり口にしない、それが傲慢さであることを知っているからだ。だから君は僕らより傲慢だ」
 僕ら2人は、彼よりも自分たちが倫理的だと信じて疑わない。しかし、彼を糾弾する「現実的体制」は十分に整っていた。だからこそ僕らは彼を糾弾したのだ。現実的には、彼は傲慢さを断罪されるだろう。ただ、こうも考えた。深いところでは、僕らは同じ倫理的水準にいるのではないか、と。(自身の傲慢さを「自覚」したとしても、こんどは「自分は他人よりも自身の傲慢さを自覚している」という点で傲慢さを免れないだろう。「自覚」を神聖視しないかぎりにおいて。)
 ひとはみな傲慢であるのか、もしくは、倫理的であるための道がまだ存在するのか。「ドッグヴィル」はとてつもなく大きなことを、僕に気づかせてくれた。

Tuesday, August 2, 2016

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』〜夜もまたひとつの太陽である〜

 僕のカウンセラーは僕に最大限配慮して、最善の解決法にいたるきっかけを示して僕に選択を委ねてくれる。僕が情動の面で揺れ動いても、正論によってそれを修正し、ポジティブな方向へと僕を導く。それはこの上なくありがたいことだ。ただ、それをされればされるほど僕は救いや拠り所がなくなる。無気力へと向かう不安が増す。僕は理屈で物事を考える人間だと自分では思っているが、やっぱり最終的には情動が理性を追い越してしまう。不安や倦怠、病への志向、根拠に欠ける自信の無さなど。正論(正しさによる慰め、勇気付け。「あなたならできる」にどんなに正当性があったとしても。)はそれに太刀打ちできないように思う。
 ではそれに太刀打ちできるものは何か。自分なりに考えてみた。それは、救いのなさや闇、絶望ではないだろうか。それがある個人においては光になりうるということだ。僕はこのようなものにすべてを委ねてはいないが、僕が自由であり、何でもできるということに耐えられなくなってきていた。
 ラース・フォン・トリアーの映画で「ダンサー・イン・ザ・ダーク」というのがある。この作品は救いのなさや闇しかない。悲しすぎて涙も出ず、ずっと胸をグサグサ突き刺されながら見ていた。時折はさまれるミュージカルシーンが救い。でもそれも報われないから結局は救いではないのだけど…。でもなぜだか、これを見て僕はどこか救われたところがある。主人公のセルマはどこからどこまでもかわいそうで「もうやめて!」と心のうちで叫ぶのだが、それでも依然としてこの作品は救いなのだ。文字どおり「闇」なのだが、それが闇であるまさにそのことによって、それは僕のなかで「光」になってしまった。
 正しい導きであるところのカウンセリングで、僕の不安がくみ尽くされない理由がわかった気がした。僕は自分の情動を理性でくみ尽くそうと躍起になっていた。自分の闇をポジティブな光に取り込もうとしていた。そうすればするほど、僕は無気力へと向かった。僕はカウンセリングで自分の思考を論理立てて解決法をさぐるよりも、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の救いのなさに直面したときのほうが自分のなかの生きる力のようなものをしっかりと感じることができたのだ。これはおどろくべきことだ。ニーチェの「夜もまたひとつの太陽だ。」(「ツァラトゥストラ」)とはこのことかもしれない。