Monday, June 27, 2016

三島由紀夫のバタイユ論

 三島由紀夫は晩年の「小説とは何か」という評論において、バタイユの小説三部作のなかの『マダム・エドワルダ』と『わが母』について書いている。しかし彼は、バタイユの思想のなかでとりわけ重要な「神」という概念を独特なしかたで捉えていると感じた。それはとりわけ『マダム・エドワルダ』論において顕著である。
 三島は『マダム・エドワルダ』の「神」概念について、ある解釈を与えている。ここに引用してみよう。

 さて、この短編小説は、神の存在証明の怖ろしい簡潔な証言を意図したものであるが、全体の構造は、「いつ神が現はれ、いつ神の存在が証明されるか」といふ、スリラーのやうなサスペンスを織り込んでゐる。そのため構成は、一幕物のやうに注意ぶかくしつらへられ、前段、「おれ」がマダム・エドワルダと会つて、寝て、裸の上にドミノを羽織つて突然外出するエドワルダを追ふまでは、エドワルダ自身「神」を名乗りはするけれども、「おれ」は未だ見神の体験に達せず、神の存在証明は放置されてゐる。
 それが、「空虚な狂おしい青空」の下で、アーチの門下に立つ黒衣のエドワルダを「おれ」が見るとき、すでに性的釈放によつて彼女から解放され、陶酔を免除された「おれ」は、エドワルダが、彼女自身名乗つたやうに「神」であつたことを認識する。
 しかし、それは実は、理神論的な神であり、肉慾から醒めた理智により悟性によつて到達された、デカルト的な神であると云つてよからう。これはいはば、この巧妙な小説家のトリックである。(…)
(「小説とは何か」(『三島由紀夫全集第34巻』)2003、新潮社、p.713~714)

 つまり、小説の前段の時点では主人公は未だ神を見ておらず、それは理性的な仕方で神を認識したにすぎない。そして主人公のほんとうの見神体験は、小説の最後、つまりエドワルダがタクシーの運転手を交えエロティシズムの極限に至るそのときになされるというのだ。それはバタイユが小説家として施したトリックであり効果であるというのだ。
 三島は、バタイユにおいてときどき18世紀的な理神論の残滓を見出すと書いていた。それが、バタイユの言いたかったほんとうの見神体験のための伏線になっているということだろう。しかしこのような見方は、バタイユの「神」概念のある一面しか汲みとれていないのではと思った。
 三島は「この短編小説は、神の存在証明の怖ろしい簡潔な証言を意図したものである」という。はたしてそうであろうか。彼の見解はたしかに、キリスト教的近代的な神にエロティシズムと苦痛を対置させた非理性的な神であるのかもしれない。しかしそれは「神の存在証明」といういわば完成系を念頭に置いていて、理性と非理性のうちに、脱出口のない夜の闇のうちを彷徨うというあり方を欠いているために、いまだ西洋的な神の観点にとどまってしまっているのではないかと思った。
 
 (三島はバタイユを「上品だ」と言っていた。上品とは一本筋が通っている姿勢のよさということだと。なるほど。しかし上品とはどういうことだろうか。下品であるのと同程度に上品であるのか、つまり上品であればあるほど下品であるのか。僕はそう思っていた。しかし三島の見方はすこし違うような気がするがうまく言えない。その意味を考えたい。)