本を読んでいると、ひとはそこから何かを感じとりたいと願うものだろう。僕は今バタイユを読んでいるが、何かを感じとりたいと願いつつも、それはまったくと言えるほど達成されていない。バタイユの翻訳者である出口裕弘はこう言う。
原著者がいずれは命を削って書いたであろうものを、そう安直に理解したつもりになっては罰が当たろうというものだ。(バタイユ『内的体験』出口裕弘訳、平凡社ライブラリー、p.452、訳者あとがき)
僕は胸をなでおろした。しかしそうは言っても、では僕はなぜバタイユを読んでいるのだろう。つまらないのならば、読む理由などない。僕がカントをつまらないと感じ読まないのと同じ理由で読まなければ良い。でもそこに何かあると感じてしまうのだ。だがバタイユは、その期待を打ち砕くかのようなことをいう。
この本はある絶望の物語だ。(Ibid.,p.15)
何を書こうとも私は失敗に終わる。(Ibid.,p.98)
したがって、バタイユに対してある遠さを感じている僕のような者にとって、バタイユの世界に入ってゆくことは非常な勇気を必要とするのだろう。失敗や絶望、不安や孤独を恐れぬ態度、それを必要とするのだろう。
翻訳者の出口さえも、バタイユに対する自身の遠さをほのめかしていなくはない。
花の香りの、沈黙の、測定不能の赤裸の現存を、バタイユは脳のしびれるような瞬時の内的燃焼としてしばしば体験することができた人なのだろう。その点、羨望をそそらずにはすまぬ人物である。*(Ibid.,p.454、訳者あとがき)
バタイユ自身の赤裸の現存の体験、そしてバタイユという人物に羨望した出口と同じように、僕はバタイユや、バタイユを読み少しでもバタイユと体験を共有している人々を羨ましく思う。
しかしここでも、バタイユは希望を打ち砕く。
人々は私に嫉妬を掻き立てることはできまい。私が望んでいたのは砂漠だ。明晰にして際限のない死に必要な場所(条件)だ。(Ibid.,p.122)
この言葉を見て、僕は戸惑った。不安になった。このまま僕はバタイユを読み続けていいのか、と。僕は砂漠など望んでいない。砂漠とは空虚な場所だろう。砂漠の中に身を投げることは人生を無駄にすることではないのか。僕は豊かなものを望んでいるのに!バタイユの言葉は勇気を試す。「勇気を出せばかくかくしかじかのものが得られる」という仕方で試すのではなく、勇気の後も砂漠なのだ。だから、もはや勇気だけが試されているといえる。
「でも僕は勇気のない人間だ!」と言いたいところだが、僕は勇気のない人間と決まったわけではない。なぜならば、バタイユの書物を読むというそのことも、ほんの少しの勇気かもしれないからだ。その場合、僕はその勇気自体をおそれている。
こうも僕を不安にし、かき乱すバタイユとはいったい何者なのだろう。出口は声高にこう言っていた。
むしろ私は、『内的体験』を精読した者として、「この本はある絶望の物語だ」と序文に書いたバタイユの率直さに感嘆するのである。絶望の物語!自分の本の序文にそういう旗を掲げるだけの勇気のある人間が、この現代に何人いるだろうか。 (Ibid.,p.455、訳者あとがき)
そう。バタイユ自身が勇気のある人間だったのだ。僕は勇気のあるバタイユが羨ましいし、それを垣間見た出口が羨ましい。僕とバタイユの距離はまだ、とてつもなく遠い。僕は今後もバタイユを読んでいられるだろうか。
*バタイユ自身の「沈黙を成就させるのは、心情のあの深くまた病的な愛だ。ある花の香りがさまざまな無意志的記憶に充たされていれば、その花の優しさが瞬時にして私たちに頒ってくれる秘密の、その胸苦しさのうちに、私たちはひとりで花の匂いを嗅ごうとして歩みをとどめるだろう。この秘密とは、内的な、沈黙の、測定不能の、赤裸の現存にほかならない。」(Ibid、p.50)という言葉に言及しながら。