Wednesday, August 10, 2016

音楽の脆弱性について

 近ごろは、音楽に対して以前ほど積極的に働きかけてはいない。なぜならば、音楽を勉強すればするほど、音楽に初めて出会ったときのあのほとばしるような情熱が忘れられていったからだ。しかしすでに、音楽が無くてはならないものになっていた。その意味では、僕は音楽に依存しているともいえる。
 だが、一度は音楽に激しく魅了されたのだ。そのときの有り様を、仮に以前のような形でなくとも、取り戻したいという気持ちがある。これは仕方のないことだ。
 僕があるひとつの音楽に初めて出会ったその時、僕はまさにその「今」しか眼中に無かった。なぜならばその「今」初めてそれを聴いたからだ。たとえば、小学校時代にベートーヴェンの交響曲を初めて耳にしたとき。交響曲第3番の冒頭があのように豊かに鳴り響いたのはまさにあの時であった。そしてその感動を取り戻すべく、僕はベートーヴェンを繰り返し聴いたのである。そののち、僕はベートーヴェンを繰り返し聴くことによって和声学を学んでいた。頭のなかでバス音に数字をふって自己流に解釈した。そしてそれは既存の和声学の行程に通ずるものであった。
 ベートーヴェンには僕の「幼年期の音楽的感動」が詰まっている。だから、「青年」となった今、ベートーヴェンを聴くと、僕の「幼年」が連想されるのだ。かつての記憶やイメージが、ベートーヴェンの音楽を飲み込んでいるのだ。音楽は時に強大な力を帯びるが、過去の記憶やイメージ、外的環境に音楽自身のイメージを占拠されやすいという脆弱性をも抱えていると思うのだ。
 このように、音楽自身が他のイメージに飲み込まれてしまう経験は何度となくある。村上春樹の『ノルウェイの森』を読む時はいつもグレイト・ジャズ・トリオの「アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード」をかけていたから、このアルバムを聴くといつも『ノルウェイの森』のイメージが思い出される。
 ヨハン・シュトラウスのワルツを聴いていた時期は、僕は音楽に対する夢と希望に溢れていた。自分の野心をシュトラウスのワルツに託したのだ。しかし危機に直面したときに、そのように作り上げられたイメージは、僕を落ち込ませるものになったのだ。
 もっと深刻な例を挙げよう。作曲のレッスンに緊張して不安に駆られていた時期に、レッスンではフランクのヴァイオリンソナタを研究していた。そしてそれ以後、フランクのヴァイオリンソナタを聴くと、その時の自分の神経質な負の感情が思い出されるようになってしまった。分析においては全く非の打ち所のないこの作品ですら、僕の音楽的感動とは程遠くなってしまったのだ。これは、僕がフランクを嫌いだという事を意味しないのではないか。
 今にいたる、僕が音楽を専門的に学んできた期間は、外的なイメージにやられるという音楽の弱さを痛感した期間でもあった。しかし、それが外的なイメージにやられるということを直感的に感じてしまうため、そこに「本物の音楽」とか「音楽そのもの」があると感じさせてしまうという魔力が音楽にはある。そこにいたるには、なかなか遠い道のりではないかという気がしている。しかし、悲観しているのではない。