「書くこと」や「語ること」とはいったいどのようなことなのだろうか。こうして文章を書いていると、いつも考える。「書くこと」や「語ること」とはつまり、「誰かに対して語りかけること」であろう。何か言葉を発したその瞬間に、それは他者へとひらかれることになるのだ。日記ですら、自分というひとりの他者に向けて書かれるものであるのだから。
さて、今私はこうして、他者に向けて言葉を書いている。他者に向かって語りかけている。この事態は、他者がいなければ成り立たないものだ。その他者との関係について、問いなおしてみたいと思った。なぜならば、私の文章を読んでくれるかもしれない他者と、私との関係について考えなければ、私が誰かに向かって語りかけることの意味に対して、光が当たらなくなってしまうからだ。
まず、何かを書くということは、それを誰かに読んでほしいという願望の現れである。誰かが読んでくれたときの喜びは忘れられない。これは、あらゆるひとにとって普遍的な喜びであることだろう。
しかし、誰かに読まれることが、とてつもない喜びであるからこそ、「書くこと」と「読むこと」がある種の契約を結ぶようになる。私は、自分の文章が無条件的に読まれることを欲した。その瞬間に言葉たちは、交換可能な通貨と化したのだった。いや、それはもはや、「書くこと」と「読むこと」の等価交換ですらない。そのようにして読まれることは、「読み」の可能性を無にしてしまうからだ。自分の読んでほしいように、自分の思うがままに読まれることを欲すること。それは、自分という他者に向けて書くこと、ですらなく、自分に対して自分の言葉を同語反復的に発することではないだろうか。
誰かに向けて書かれた言葉が、誰かによって読まれるかどうかは、皆目わからないのだ。これは、私の文章が取るに足らないものであるという理由から言っているのではない。それを判断するのは、まぎれもない他者なのである。
しかし、それでもなお、なぜ私は書くのだろうか。この問いは依然として問いである。ただひとつ確実なのは、私が今このページに言葉を綴ったというそのことによって、これを読んでくれたひとがいたら、私はとても嬉しいということである。
→書くこと、語ること(1)