僕は、このブログにおいてまじめなことを書くとき、自分のために書いている。自分を救うために、自分を治療するために書いている。だから、必ずしも生産的な内容になるわけではない。どうかあたたかい目で見守ってほしい。
僕が今、何よりも困っていること。それは、人生の選択ができないということだ。最近、バイトの帰りにコンビニでビールを買って帰るのだが、自分がどのビールを飲みたいか考えれば考えるほど、どれを選べばよいのかわからなくなる。選択とはそういうことだ。どのビールを買っても大して変わり映えがしない。変わり映えのしないものの中から何かを選択することが、何かを選ぶということの内実なのだ。
この記事でも紹介した、内海健『自閉症スペクトラムの精神病理』では、このような並列する選択肢が、ASD者のひとつの精神病理として捉え直されていた。
理念によって経験がまとまりあがらないとき、事象は並列的になる。
たとえば綾屋*1は、「食べたい」と思ったときには、他のさまざまな身体感覚とともに、「食べたくない」が併存するという。そして空腹なのかどうかもあやしくなる。
定型者の場合は、たいてい「食べたい」か「食べたくない」のどちらかにまとまりがある。「食べたい」ときでも、あらためて本当に空腹なのかときかれたら、さほどでもないこともあるだろう。もしかしたら食べたくないのかもしれない。だが、こうした場合でも、たとえば「小腹がすいた」とか、「そんなに腹はへっていない」といったまとめ上げ方をするだろう。決して「食べたい」と「食べたくない」が並列するわけではない。この並列化は、しばしばASD者の決断不能や強迫と結び付く。(Ibid.,p.161)
僕にはやりたいことがたくさんある。たくさんの選択肢がある。選択したいことがらに囲まれている。このことはとても幸せなことだろう。「やりたいことがあるだけで幸せ」。ひとはそう言うし、僕もそう思う。ただ、この幸せは、脇に置いておきたい。幸せは幸せとしてそのまま括弧に入れて考えたい。なぜなら、僕はそれを負い目に感じてしまうからだ。「やりたいことがたくさんあるにもかかわらずなぜ僕は選択しないんだ」と。そして、僕に「やりたいことがたくさんあって羨ましい」と言うひとたちに、どんどん負債を負っているような気になるのだ。しかし、こんな風に考えているそのときも、僕は判断から遠のいていくばかりだ。考えていると、それが本当にやりたいことなのかもわからなくなってしまう。このことに対する内海氏の説明は、おどろくほど的確だ。
実のところ、選択においては、合理的になればなるほど、選べなくなるというちょっとしたパラドックスのようなものがある。重大なことになればなるほど、そうした傾向がある。だがASD者は、日常的な局面で、こうしたパラドックスで立ち往生してしまう。
この並列化という現象は、行動における選択だけでなく、認知においてもしばしば現れる。その際、いくつかの解釈の可能性を列挙するだけで、そこから判断が立ち上がらない。(Ibid.,p.162)
そして、判断が立ち上がらないもうひとつの理由は、内海によると「スケジューリングが苦手であること」だ。
ASDは並列する選択肢の前でたたずむ。それが選択を方向付ける理念がないことによるのはすでにみた。今一つの理由は、一つのことを選択したあとの状況が想像できないということがある。現在を離脱して、時系列に展開するさまを思い描くことができない。(Ibid.,p.168)
今まで、自分は選択に際していつも困るとかスケジューリングが苦手だとか思ったことはあったが、その二つに関係があるということは思っていなかった。やってみなければわからないが、短期的なスケジューリングの積み重ねによって、選択不可能性が緩和されるかもしれない。これは今後の地道な課題としたい。
ここまで、僕が選択において考えすぎてしまうこと、判断が立ち上がらないことの説明を、内海のASD論によって補完した。選択できないことの言い訳のように思えるかもしれないが、なぜこのようなことを書いたかというと、言語化することで、僕の内なる「考えてしまう自己」は一定の意味で安心を得るからだ。今まで「考えるな。選択し行動せよ」そう自分を律しても、「考えてしまう自己」がオーバーヒートしてしまっていたのだ。ともあれ僕はひとつの安心を得た。
*1:綾屋紗月、熊谷晋一郎『発達障害当事者研究—ゆっくりていねいにつながりたい』医学書院、2008、p.26、前掲書より再引用