僕は最近、自分は自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)ではないかということがずっと気になっている。というのも、以前のカウンセラーに再三そのことを言われたからである。初めてそのことを言われて以来、当事者研究に興味をもち、発達障害や当事者研究に関する本など、いろいろ読んだ。そのときに感じていたことは、当事者研究によって自分を制限してしまうのではないか、という不安である。診断名をもらっていないのに、自分を当事者として語ることは、「自分はかくかくしかじかの存在である」と決めつけて、現実に直面している問題を先送りにしてしまうのではないかと思った。実際に僕は、臨床的な意味での診断は必要ないだろう、と言われた。診断を下すことで何か当事者にとってメリットがあるから診断するのであって、アイデンティティの確保だけのための診断ではないからである。僕はこのように考えて、それ以来自閉症スペクトラムや当事者研究について、手をつけないでいた。現実的な問題の解決を優先させたのだ。
しかし僕は、自閉症スペクトラムについて調べていたとき、不思議な楽しさがそこにあったことを思い出した。たしかに僕は、診断名というアイデンティティにすがっていたのかもしれないけれど、そのこととは別の、自分という存在が研究を通して言語によってありありと語られてゆくことに、快感を感じていたのである。
内海健の『自閉症スペクトラムの精神病理』という本は、まさにそのような快感を僕に与えた。ASD者の世界を、ここまでアクチュアルに語っている本は初めてで、感動すらした。定型者の側からの一方的な語りではなく、非定型者への安直な共感でもなく、そこにあるのはあくまで人間を相対化した客観的な視点であった。自分が体験していたにもかかわらず言語化できなかった事柄がそこにはあった。それは僕にとって診断名より大事なことだった。自分が語られていたからである。
この喜びは、当事者研究を躊躇させないのではないだろうか。正直僕は(発達障害の)当事者研究をしている人たちをばかにしていたと思う。彼らはどこか凝り固まっているように思えた。弱者としてのアイデンティティをそれによって保っているように思えた。でも、それは僕の想像力の欠如だったかもしれない。もっと根本的な、自分を取り戻したいという欲求なのかもしれない。そしてその自分が語られたとき、研究は喜びに変わるのだろうと思う。