Tuesday, September 13, 2016

書くこと、語ること(1)

 ここのところ、自分の中で変化が起きていていると感じる。それによって僕の脳は少し興奮しているみたいだ。本を読むのもままならない。ツイッターばかり見ているし、ブログばかり書いている。自分のうちに何か混沌としたものがあって、それが溢れ出しているような感覚だ。しかし、ひとたび理性的な自分によってその行為を反省すると、とても恥ずかしい気持ちになる。理性的な自分はその行為に何か理由を求める。「自分の内なる何かを表明することは、承認欲求に基づいている」などと…。まだ混沌のうちにとどまっている衝動的な自分が、このような理性的な自分に出会ったときに、自分のした行為を後悔するということが何度となくあるのだ。
 でも僕は、ほんの少しの何かを表明することに踏み切った(それを踏み切るまでにすでに踏み切っていた)衝動的な自分を擁護したいと思っている。なぜならばこの衝動的な自分は、自分がたしかに変化したこと、成長したことによって生まれてきた自分だからである。


 僕は今カウンセリングに通っているが、そこではクライアントの問題を解決に導くというカウンセリング本来の目的を脇におけば、ただ語ることと聴くことが繰り返されている。「ただ誰かに対して語ること」そのことに、自分をとりまく世界(他者)との何か根本的な意味でのつながりを感じた。語られたものが解決されるかとか理解されるかといった問題とは別に、語ることそのものの効用を考えたことが、僕のカウンセリングにおける学びだったといっても過言ではない。
 これは「書くこと」においても言えることなのではないだろうか。たとえばツイッターには、リプライやいいね機能によって他人とコミュニケーションを取り、互いに承認し合うという役割もたしかにある。しかしそこでは「何かを誰かにむけて書くこと」そのものの役割も担われているように思うのだ。どんなに無意味なつぶやきですら、誰かによって書かれたというそのことによってそれは神聖さを失わないのだ。
 ひとは何かを抱えているものだ。必ずしもネガティヴなものとはかぎらない。それはひとりひとり違うだろう。それをただ他人にむけて書くことや語ることで、それが世界との関わりを取り戻すたしかな足がかりになると思うのだ。
 さて、これで僕の衝動的な自己は擁護されただろうか。わからない。ただ、僕は今後も、自分の恥ずかしさも含めて書いたり語ったりするということに変わりはない。沈黙しないことだ。このブログもこのようなスタンスで書いていこうと思う。