Friday, April 15, 2016

一人称に関する考察

 私は、普段自分のことを「僕」と言う。しかし、一人称のことを考えるといつももやもやする。このような「書き言葉」の場合には、常法にしたがって「私」にするのであるが、「僕」にも「私」にも「俺」にも、完全に自分を言い当てているという感覚はない。強いて言えば、「僕」の方が「私」や「俺」よりも、少しだけ「生身の自分」に近いから実生活では「僕」を使っているというだけである。
 ここでは、他者との関係性という観点で、一人称は生身の自分を表しうるかどうかを簡単に考察する。
 さて、男の一人称はだいたい「僕」か「俺」であろう。(「わし」、「拙者」、「我輩」など特殊な例はあるかもしれないが、ここでは除外させていただく。)私は小学校時代、「俺」のもつ強さと男らしさに惹かれ、「俺」を使っていた時期がある。「俺」には強い響きとイメージがある。しかし、すぐに自分が強がっているということに気づき、やめてしまった。「俺」という一人称は他者に対して強さを表明してしまうという点で、他者との関係性において過剰なのである。生身の自分はそこまで強くないのに、なぜ他人に強さを表明しなければならないのかと自問した。(それ以来私の一人称は「僕」になるわけであるが、「僕」に完全にしっくりきていたわけではない。)
 それに対し、私にとって「僕」という一人称は、弱さと甘えという意味合いをもつ。それは、大人が男の子に向かってよく言う「僕ちゃん、可愛いねえ。」という語りかけへの応答なのかもしれない。大人に媚びることで生きのびようとする幼児期のなごりなのかもしれない。「僕、アイスクリームが食べたいの!」というような…。しかし、自分はそこまで弱い存在ではない、そう思いたくなるものである。自立した個人として生きている大人にとって弱さや甘えの表明である「僕」という一人称は、他者との関係性において過剰なのである。
 このように、「僕」や「俺」という一人称は、甘えていたり強がっていたり、他者との関係性において過剰なのである。それは生身の自分ではなく、他者との関係性を求める自分である。
 それに対して「私」は、公的な場所において使われがちである。そこでは暗黙のうちに、「私はあなたとはプライヴェートな関係ではない。」ということが表明されるように思われる。たとえ「私」と言った本人がそう思っていなくても、社会的にそうなのである。「私」と言った時に、他者との距離が遠くなるような気がするのは私だけであろうか。「私」という一人称は、いやが上にも、他者との関係性の欠如として使用されるのである。
 したがって、過不足ない「生身の自分」を言い当てる一人称は、日本語には存在しないのではないだろうか。これは大変興味深いことだ。なぜなら、一人称は自己のアイデンティティに関わる重要な言語だからである。 ここに、日本人としての生きづらさがある。英語やドイツ語では一人称に該当するものは「I」とか「Ich」ひとつで済まされる。統一することによって「生身の自分」が完全に示されるとは思えないのだが、統一された一人称はいわば「無機質な一人称」であり、過剰なアイデンティティを付与されない、ということはある。しかし、日本語の一人称は多岐にわたるので、社会的な文脈によってそれぞれに意味合いが与えられるのである。我々は必要以上に、他者との関係性の過剰及び欠如を強いられる。したがって、いかなる一人称も「生身の自分」を表しうることはないだろう。

まとめ
 このような分析がどれほど客観的なものかはあやしいが、最近、「生身の自分」を言葉によって語るという動機が生まれてきた。言葉への関心、もっと言えば、言葉の厳密性への関心が高まった。言葉を捨てる、という選択肢も無くはない。しかし、私はこのような「言葉のイメージ」にとらわれている。もしかしたら、私自身が、一人称に過剰な意味を付与しているのかもしれない。 私は、とらわれに忠実になるということを選択したいのである。