今回は最近勉強しているジョルジュ・バタイユについて自由に書いてみようと思う。
バタイユという哲学者(思想家といった方がいいか)は、私にとって不思議な存在である。その激烈な思想に心惹かれるのではあるが、どうもどっぷり心酔できないという具合である。これは、学部でウィトゲンシュタインを研究していた時とは全く違う感覚であった。ウィトゲンシュタインの場合は、彼の哲学の方法論にどっぷり心酔し、ともすれば信者になりかねないという具合であった。(しかしこのことは、必ずしも私がバタイユに興味がないということを意味しない。現に私は、バタイユの思想に一定の仕方で興味を抱いている。)
このように、とらえ方に違いが生じるのはなぜだろうか。あれこれ考えてみたのであるが、おそらく、バタイユの主体性に関する考え方がわれわれの理性にとって常軌を逸しているからであろう。
バタイユの場合、彼の言う「内的体験」とか「非–知」という段階において、われわれの主体性は疑問に付されなければならない。つまり、私が〈私〉として存在している、というわれわれにとって自明なあり方を根本から問いなおさないと、人間のすべては見えない、ということである。理性的な主体性から逸脱した領域を体験によって行きぬかないとだめだ、(なぜなら、その逸脱した領域は、理性的な主体性によっては把握できない隠された領域であるため)ということだ。
しかし、正直なところ、そんなことが可能なのかと思ってしまうのである。それは単に思想レベルでの、机上の空論なのではないか。結局理性の側にとどまっているのではないか。そう疑ってしまうのである。だいいち、これはすでにバタイユに反論されているのだが、私はずっと生まれてこのかた、私は〈私〉でしかない、と確信してきた。バタイユは、われわれの自明なあり方が疑問に付されるなどとは考えもしないという、そのようなあり方が問題であるという。
さて、ウィトゲンシュタインの場合はどうだったか。ウィトゲンシュタインは反対に、私の信念である、「私は〈私〉であり他の何者でもない。」ということを哲学的に考えるための格好の材料であった。事実ウィトゲンシュタインは、独我論の問題を徹底して取り上げているのだ。独我論は主体を疑問に付してしまったらそれはもはや独我論ではなくなるだろう。(卒業論文ではウィトゲンシュタインの独我論の問題をやりたかったのだが、諸事情により廃案になった。)要するに、私の哲学的な問題意識が、ウィトゲンシュタインのそれと似ていたのである。(問題意識が似通っていただけで、ウィトゲンシュタインほどの天才にはなれるわけがないのであるが。)
バタイユの場合とウィトゲンシュタインの場合を比較してわかったことは、バタイユの場合は、主体性を崩壊させられるくらいの体験へと誘われたのだが、ウィトゲンシュタインはそのようなことはなかったということだ。したがって、私にとってバタイユは異物として捉えられたのだろう。主体性が疑われるような境地に少しでも足をふみいれるのが怖いのかもしれない。
問題は、今後バタイユに対してどのように接して行くのか、である。異物を退けるというのはそれこそいちばんバタイユ的でない態度であろう。バタイユのよう価値転換的な考え方もあるのだと知ってしまったが最期、それに囚われ魅了されるしかないのかもしれない。