バタイユの小説において根底にあるものはだいたいにおいて共通しているだろう。それはエロティシズム、死、夜、闇であり、われわれが日頃見ようとしないもの、目を背けてしまうものである。バタイユは『太陽肛門』において、われわれが目を背けるものを太陽になぞらえてこのように述べる。
勃起と太陽は死体や地下室の暗闇と同様に眉をひそめさせる。植物は一様に太陽の方向を目指す、だが逆に、人間的存在は、樹々のように陽物状であるにもかかわらず、ほかの動物たちと反して、それから必然的に眼をそらす。
人間の眼は太陽にも、交接にも、死体にも、暗闇にも耐えることができない、もっともその場合の反応は区々であるが。(『太陽肛門』(ジョルジュ・バタイユ著作集)生田耕作訳、1971、二見書房、p.157)
これらのものを見ようとする場合には必ず恐怖が伴うだろう。しかしバタイユはそのような恐怖のなかへ入ってゆこうとする 。それはなぜか。『わが母』のなかに印象的な記述がある。
「神」とは私のうちなる、過去、現在、未来にまたがる「おぞましいもの」への恐怖である、あまりのおぞましさに私は、それが嘗てあり、現にあり、未来もあることを必死で否定し、否定することを力一杯叫ばずにはいられない、しかしこれは本心からではない。
(『わが母』(ジョルジュ・バタイユ著作集) 生田耕作訳、1996、二見書房、p.63)
われわれは太陽とおなじように目をそむけるもの、おぞましいものを力のかぎり否定したくなる。バタイユ自身も然り。バタイユは太陽という肛門のなかに悠々と入っていったのではない。バタイユもそれを否定したかったのだ。しかしそれは「本心からではない」ということをわかっていた。(このことがフロイトの無意識心理学に影響を受けているのはあきらかであろう。しかしバタイユの問題意識は、そのような精神分析的な領域をすでにしてふみこえている。それは精神分析がヒステリーや神経症の治療という臨床にとどまっていたからだ。)
この『わが母』という小説は、母親との近親相姦にもとづいた激烈な愛の、いや、愛とすら呼べない究極のおぞましさと陶酔の表現である。そしてこの作品に特徴的なことは、母親を性的なものとして認識するという素材によって他の作品とはちがった意味でのおぞまそさを呈していることであろう。それはつまり、「こんなにまで汚らわしい母親から私が生まれたというおぞましさ」である。それはもう修正不可能な苦悩である。私はもう生まれてしまったのだから…。母は息子のピエールにこう言う。
「ピエール!お前はあの人の息子じゃないわ。森の中であたしが感じた恐怖から生まれた果実よ。森の中に素っ裸で、獣みたいに素っ裸でいたとき、戦慄の悦びを味わっていたときにおぼえた恐怖から、お前は生まれたのよ。ピエール、腐った木の葉の中に寝ころんで、何時間もあたしは楽しんでいたの。その楽しみからお前は生まれたのよ。あたしはけっしてお前を相手には堕落しないつもりよ、でもお前に知っておいてもらいたかったの。ピエール、父さんを憎みたかったら、憎みなさい、でもあたし以外に、お前を生みだした獣じみた興奮のことをお前に話して聞かせる母親がどこにいるでしょう。まだほんの少女だったけど、自分の中で欲情がどこまでも、途方もなく燃え上がっていくのが、だんだん淫蕩な女になっていくのがあたしはわかっていたの。お前が一人前の男になると、あたしはお前のために心配しました、あたしがどんなに心配したか知ってるでしょう」(Ibid.,p.129~130)
母エレーヌは息子に、このような生々しい、戦慄をおぼえるような恐怖の真実を伝えたのだ。ピエールはこのような母親を恐れながら、彼女を神のように崇めないわけにはいかなかった。自分の中の「神」、つまり内なる「おぞましいもの」に対する恐怖に、魅惑されてしまったのだ。
僕はこの作品を、自分の個人的な、母親に対するとらわれに基づいて読んでしまった。これがバタイユの読み方として妥当なのかということは皆目分からない。基本的にバタイユの書いたものは、ストーリーはわかりやすいが、本当に言いたいことは何なのか一見したところわからないのである。いつも、「君が受け取ったその不確かなものをそのまま正視して生きろ」と言われているかのような心地になるのだ。この作品を、母親に対するとらわれから抜け出してそれを超えたところで読むべきなのか、あるいはそのとらわれのうちで読むべきなのか。そもそもそんなことは問題ではないのか。今後はそれを考えたい。