午後は図書館で岩野卓司先生のバタイユ本を読んだ。またバタイユを読みたいという思いが湧いてくる。でも図書館の学習室が静かすぎて集中できず、早々と出てしまった。無音ってなぜか落ち着かない。無音もひとつのノイズなのかなあと思ったり。僕が気が散るのは、物音がほとんどしない静かなときと、喫茶店などで隣のひとが会話しているときらしい。
それからレンタルショップに行ってCDとDVDを借りた。最近は、ラース・フォン・トリアーにハマっている。彼の映画は基本的に救いがないのだが、救いをもとめるひとにとって、「世界には救いがない」ということを突きつけられることは、逆説的ではあるがひとつの救いになるのではないかと思うのだ。トリアーがひとを救おうとして映画を撮っていたかはわからないが(むしろ彼はルサンチマンにまみれているとも見える)、作品が作者の意図をはみ出るということは、文学作品などにはよくあることらしい。モーリス・ブランショは「書くことは書物や作品の中にその目的を持っていない。作品を書きながら、作品=営み[œuvre]の不在に引きつけられている。*1」「書くことは、いつも作品=営み[œuvre]の不在(無為[désœuvrement])を産み出すことである。*2」(岩野卓司『ジョルジュ・バタイユ 神秘経験をめぐる思想の限界と新たな可能性』、水声社、2010、p.35、より再引用。訳は岩野氏による。)と言っている。……こんなことをつらつら考えながら、ミスタードーナツでドーナツを食べて帰った。
土曜日に海に行ってひさびさに自然に触れたせいか、概して気分が良い。僕は浮き沈みの激しい人間だから、気分が浮いているときの思考をこうして書き出すということは、あながち無意味ではないだろう。
*1:M.Blanchot,L'Entretien infini,Paris,Gallimard,1969,p.624.
*2:Ibid.,p.622.