Monday, August 1, 2016

日記

 朝はベルクのソナタを弾いていた。少しは音楽に移入できるようになってきたかな。ベルクって音楽のヤマがわかりやすいから好きだ。古典派やロマン派などの調性音楽は、和音の緊張と解決という効果によって音楽の流れとしてのヤマがわかりにくくなってしまうのではないか(ベルクのソナタも一応調号は書かれているのだが、転調はきわめて自由になされている)。こんなことを考えているひとはいるのかな。音楽学者にすぐに論駁されそうだ……。
 午後は図書館で岩野卓司先生のバタイユ本を読んだ。またバタイユを読みたいという思いが湧いてくる。でも図書館の学習室が静かすぎて集中できず、早々と出てしまった。無音ってなぜか落ち着かない。無音もひとつのノイズなのかなあと思ったり。僕が気が散るのは、物音がほとんどしない静かなときと、喫茶店などで隣のひとが会話しているときらしい。
 それからレンタルショップに行ってCDとDVDを借りた。最近は、ラース・フォン・トリアーにハマっている。彼の映画は基本的に救いがないのだが、救いをもとめるひとにとって、「世界には救いがない」ということを突きつけられることは、逆説的ではあるがひとつの救いになるのではないかと思うのだ。トリアーがひとを救おうとして映画を撮っていたかはわからないが(むしろ彼はルサンチマンにまみれているとも見える)、作品が作者の意図をはみ出るということは、文学作品などにはよくあることらしい。モーリス・ブランショは「書くことは書物や作品の中にその目的を持っていない。作品を書きながら、作品=営み[œuvre]の不在に引きつけられている。*1」「書くことは、いつも作品=営み[œuvre]の不在(無為[désœuvrement])を産み出すことである。*2」(岩野卓司『ジョルジュ・バタイユ 神秘経験をめぐる思想の限界と新たな可能性』、水声社、2010、p.35、より再引用。訳は岩野氏による。)と言っている。……こんなことをつらつら考えながら、ミスタードーナツでドーナツを食べて帰った。
 土曜日に海に行ってひさびさに自然に触れたせいか、概して気分が良い。僕は浮き沈みの激しい人間だから、気分が浮いているときの思考をこうして書き出すということは、あながち無意味ではないだろう。
*1:M.Blanchot,L'Entretien infini,Paris,Gallimard,1969,p.624.
*2:Ibid.,p.622.