Tuesday, August 2, 2016

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』〜夜もまたひとつの太陽である〜

 僕のカウンセラーは僕に最大限配慮して、最善の解決法にいたるきっかけを示して僕に選択を委ねてくれる。僕が情動の面で揺れ動いても、正論によってそれを修正し、ポジティブな方向へと僕を導く。それはこの上なくありがたいことだ。ただ、それをされればされるほど僕は救いや拠り所がなくなる。無気力へと向かう不安が増す。僕は理屈で物事を考える人間だと自分では思っているが、やっぱり最終的には情動が理性を追い越してしまう。不安や倦怠、病への志向、根拠に欠ける自信の無さなど。正論(正しさによる慰め、勇気付け。「あなたならできる」にどんなに正当性があったとしても。)はそれに太刀打ちできないように思う。
 ではそれに太刀打ちできるものは何か。自分なりに考えてみた。それは、救いのなさや闇、絶望ではないだろうか。それがある個人においては光になりうるということだ。僕はこのようなものにすべてを委ねてはいないが、僕が自由であり、何でもできるということに耐えられなくなってきていた。
 ラース・フォン・トリアーの映画で「ダンサー・イン・ザ・ダーク」というのがある。この作品は救いのなさや闇しかない。悲しすぎて涙も出ず、ずっと胸をグサグサ突き刺されながら見ていた。時折はさまれるミュージカルシーンが救い。でもそれも報われないから結局は救いではないのだけど…。でもなぜだか、これを見て僕はどこか救われたところがある。主人公のセルマはどこからどこまでもかわいそうで「もうやめて!」と心のうちで叫ぶのだが、それでも依然としてこの作品は救いなのだ。文字どおり「闇」なのだが、それが闇であるまさにそのことによって、それは僕のなかで「光」になってしまった。
 正しい導きであるところのカウンセリングで、僕の不安がくみ尽くされない理由がわかった気がした。僕は自分の情動を理性でくみ尽くそうと躍起になっていた。自分の闇をポジティブな光に取り込もうとしていた。そうすればするほど、僕は無気力へと向かった。僕はカウンセリングで自分の思考を論理立てて解決法をさぐるよりも、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の救いのなさに直面したときのほうが自分のなかの生きる力のようなものをしっかりと感じることができたのだ。これはおどろくべきことだ。ニーチェの「夜もまたひとつの太陽だ。」(「ツァラトゥストラ」)とはこのことかもしれない。