Monday, September 12, 2016

『メランコリア』〜救済としての世界の終焉〜

 このブログでも何度も書いていることだが、僕自身はラース・フォン・トリアーの作品群をみて救われたという思いがある。誤解を恐れずに言えば「生きる希望を得た」とすら思える。そしてなぜそのように感じるのか、ということをずっと考えている。なぜなら、多くの作品において物語は「最悪の事態」に向かっているからだ。最悪の事態からなぜ、希望が生まれるのか。

 ここで取り上げる『メランコリア』は、トリアー自身の鬱病的なものが前面に出ている作品である。病というある種の絶望をえがくことから何が生まれるか、ということを考えるには格好の作品だと思う。

 『メランコリア』の物語は二部構成で、前半がキルスティン・ダンスト演じるジャスティン、後半がシャルロット・ゲンズブール演じるクレアに焦点を当てている。前半、ジャスティンは鬱(メランコリア)を抱えていて周囲に馴染めず、その不和に苦しんでいるが、後半になると「メランコリア」という惑星が地球に接近するにつれて彼女は冷静さを取り戻し、逆に健常者のクレアはパニックに陥っていく。そして最後には惑星メランコリアは地球に衝突し、世界は滅亡する。究極のバッドエンドである。
 しかしトリアーは興味深いことに、この『メランコリア』におけるラストを「ハッピーエンド」だとしている。これは彼の鬱病的なパーソナリティに関係していることだ。つまり、これはジャスティンの鬱病が回復していくストーリーなのだ。クレアは「メランコリア」によって、逆に病的な状態へと傾いていったが、ジャスティンにおいては、惑星の衝突という究極の悲劇を予測するにつれて病から解放されていった。このラストが「ハッピーエンド」たる所以はここにある。
 評論家の佐々木敦氏がとても興味深いことを書いている。

 いささかデリケートな話題なので気を遣うが、私の知人に、長年鬱病(的なもの)に悩まされていたが、「2011年3月11日」以後に急に元気になった、という人が居た。そのメカニズムのほんとうのところは知るところではないが、同じような話は当時、幾度か耳にしたように思う。だがジャスティンの復調は、それらとはやはり違う。災厄や危機と、終焉や滅亡は異なるからである。だがひとつの共通点は、自分自身の罪や責任からは完全に切り離された、紛れもなく具体的な悲劇、無根拠で不条理な悲劇こそが、具体的でない、説明の不可能な、つまり気分としての鬱に対する、一種のショック療法として作用することがある、ということである。
(『ユリイカ』2014年10月号、青土社、p.73)

 このように、この作品においては「最悪の事態」としての世界の終焉が、救済としての力を持つのである。鬱病患者は世界に対して絶望しているがゆえに、つねに最悪の事態を見据えている。ジャスティンも例にもれない。「メランコリア」の接近はジャスティンの冷静さを増幅させるかのようですらあった。ジャスティンの強さは僕に「何があっても絶対に安全な感覚」を与えたように思う。安直な希望などよりもずっと多く。なぜならば、世界が終焉を迎えても、ジャスティンは強くあったからだ。

 以上のことが、僕がこの作品によって救われたということの「個人的な内実」である。誰かほかのひとに「この作品は救済をえがいたものではない。これは絶望の物語だ」などと言われたとしても、依然として僕が救われたことには変わりはない。しかし深いところでは、トリアーのいう「ハッピーエンド」はある種のレトリックにすぎない、という疑念も残ることは事実だ。つまり、これは事実としてはバッドエンドであり、彼は「このバッドエンドは〈実は〉ハッピーエンドだ」と言っているにすぎないからである。これを文字通りに解釈し、世界の終わりがハッピーだとするなら生きている価値などゼロであり、早々と自殺をすればいいだけの話だ。しかし、全ての価値を相対化するわけでもなく、「ハッピーエンド」だと言い張る。彼はミステリアスなままに、おどけてみせるのだ。こういうところにトリアーの喜劇性があると思うのだが、いかがだろうか。

強調は引用者による