Tuesday, October 18, 2016

ミハイル・プレトニョフ@10/17浜離宮朝日ホール

 僕が最も敬愛するピアニスト、ミハイル・プレトニョフのリサイタルに行ってきた。ここ1年ほどクラシックのコンサートに行かなかったが、久々のクラシック音楽の愉しみがプレトニョフ氏のリサイタルであるというのは、なんと幸せなことだろう。そしてプログラムはなんとオールラフマニノフ(!)。ピアニストの体力もさることながら、聴衆の集中力までもが必要とされる盛りだくさんなプログラムである。プログラムは前半が小品で、後半がソナタ第1番である。
 プレトニョフの解釈は基本的に自由奔放である。しかし、自由奔放なのは確かだが、彼の演奏は、音色のバリエーションの豊富さによって作品の構造的な魅力をも浮き彫りにするようなものでもあった。ときおりバッハを聴いているような気分にもなった。そして何よりも、響きを最優先に弾いているように思えた。響きが美しいことの条件は、常に音がクリアであることだ。プレトニョフはそのことにおいて常に完璧だ。それはペダルに頼らないということではなくて、ペダルの効果によって音の純度を犠牲にしないということだ。まさに神がかりのペダリングである。しかしこれは、彼の魅力の一面にすぎないと思う。もっと重要なことは、作品が作品の限界をこえるような事態がそこにあったということだ。
 以前カルロス・クライバーの演奏を聴いたときにも感じたことであるが、作品がその限界を超えるような演奏がごく稀にある。プレトニョフの演奏は常に予想を裏切る。そこには考えた形跡が感じられる。そのことに作為性やあざとさを感じるひともいるかもしれない。しかしクラシック音楽は、演奏家が積極的に既存の作品の価値から抜け出そうとしないと死んでしまうと思う。プレトニョフの音楽からは、そのような切迫した思いが感じられた。作品が作品の限界をこえて、新しい世界が開けていたのだ。これこそ創造的な行為ではないだろうか。それはかつてない種類の感動だった。感情が揺さぶられるのではない、理知的なものだった。