ラース・フォン・トリアーの映画は僕に衝撃を与えた。僕はそれまでずっと他の誰かになろうとしていた。すでに失われてしまっている何かを追い求めてしまっていた。でも、彼の映画の主人公はみな生きたいように生きている。それが最終的に破滅という形態をとろうとも。むしろ、自分が生きたいように生きることは、究極的には破滅に向かうのかもしれない。
しかし、なぜか僕は、ことごとく破滅に向かう彼の作品から「ただ生きていればそれでいい」という肯定的な力、「絶対に安全な感覚」を感じとった。これはもちろん、「安泰」という意味ではなくて、むしろ「現実感」に近いように思う。生きているという感覚、生きていくうえでの基盤となるようなものだ。
僕はこの世に生まれついてから、生きることを課せられている。自殺をしたくなるような大きな悲しみもなければ、人生はハッピーだと言えるほど生きるのは楽ではない。でも、死ぬ理由が全くないし、ハッピーなことだって僕のまわりには溢れているから、僕はこれからも生きて行きたい。すなわち生きて行かねばならない。生きるとは苦難に立ち向かうことでもある。そして、苦難に立ち向かうには、このような「絶対に安全な感覚」が不可欠であるように思うのだ。これは、苦難に立ち向かうための準備ではない、「自分が生きているという大前提」である。ただしこれは、生きることが美しいことであるとか、命は尊いとかいう話とは全く別次元のことだ。トリアーの作品は、そのような価値判断とは無縁だ。それは、生きることの肯定ですらないような、全てを相対化してその全てをまるごと肯定するような肯定なのだ。