Saturday, October 29, 2016

『君の名は。』と『イディオッツ』〜〈わかるひとにはわかる〉のか〜

『君の名は。』を観た。鑑賞直後は何も感じるものがなかったが、ジワジワと憂うつな感情が押し寄せてきた。映像やストーリー、RADWIMPSの音楽、何から何までキラキラしていたから、僕はこの美しい作品を純粋に見ることができなかったみたいだ。そのことで、自分が恥ずかしくなった。#映画— Kazuki (@tokiokoetewitt) 2016年9月3日

この映画が好きな多くの人のように、人と人とが繋がることのステキさを直視できるような純粋な人でありたい。バカにしてるって思われるのかもしれないし僕はそうやって俯瞰してしまってるのだろうけど、ルサンチマン的な歪んだ気持ちとともにそういうステキさに本当に憧れているし屈服している。#映画Kazuki (@tokiokoetewitt) 2016年9月3日

 これは、僕が新海誠監督の『君の名は。』を観たときの感想である。今見ると少し恥ずかしさを感じるが、事実として、僕はこのように感じたのだ。
 『君の名は。』に対して感じたものは、僕がラース・フォン・トリアーのそれぞれの作品、とりわけ『イディオッツ』に対して感じたものと似ていた。似ていたが、それは同じではない(むしろ対極的なものともいえる)。それは、〈わかるひとにはわかる〉というものだ。この二作品に関しては、「つまらない」という感情ではなく(つまらない作品に興味はないのだから)、作品に対する自分の「遠さ」を感じた。そのおもしろさは、文字通り、〈わかるひとにはわかる〉のであり、〈僕にはわからない〉類のものだ。この感覚の内実を、二作品を比較することであきらかにして、できれば多少なりとも乗り越えることができればと思う。
 まずは『イディオッツ』から見てみよう。『イディオッツ』は、おおざっぱに言ってしまえば、健常者が障害者のふりをして、健常者が寛容の精神から障害者をみることの偽善を暴き出す、そういう集団をえがいている。これは端的に露悪的だ。なぜなら彼らは健常者だからだ。そしてこの作品におけるある種の暴力性とは、「社会に蔓延る偽善に鈍感なひと、人間の闇の部分を知らないひとには、この作品の意味がわからないだろう」ということだ。トリアーの作品は往々にして闇が深いゆえに、常にこの露悪性がつきまとう。
 『君の名は。』においては、表面的にはトリアー的な意味での露悪性は皆無だ。闇を美しいもの(他者としての君)へと昇華するという点で、むしろ普遍的なものに対する追求だといえる。ただその普遍性を追いもとめる無垢なものが、少数者、つまり作品にある遠さを感じるひとにとって、囚われとなり暴力となるという点で、『君の名は。』は露悪性において『イディオッツ』の対極にありながら、通底しているように思った。しかしこれでは単なる多数者へのルサンチマンの吐露でしかない。これでは永遠に『君の名は。』には近づけない。
 ここでわれわれは(僕は)『イディオッツ』に学ぶことができる。『イディオッツ』 は、少数者のルサンチマンを満足させるための、精神的オナニズムのための作品ではないということだ。このことは、『イディオッツ』の露悪性が自己矛盾におちいっていることからも明らかだ。つまり、障害者のふりをして世の偽善をあばく、という行為も結局は偽善に帰着するのではないか。彼らは健常者なのだから。彼らは、障害者の「ふりをする」という偽善的行為を〈自覚して〉行っているにすぎない。自覚しているということに価値を見出さないかぎり、『イディオッツ』は自己矛盾におちいるのだ。*1
 このような〈わかるひとにはわかる〉、つまり〈私だけが世界を正しくみている〉という視点は、結局自己矛盾におちいるのではないか。たとえば、〈私だけが真の光(闇)を見ている〉というひとは、ほんとうにそれを見ることができているのだろうか。それを判断するのは自分しかいないのではないか。トリアーはこの自己矛盾を、映画というある種の「遊び」のなかで浮き彫りにしているように思う。
 さて、この自己矛盾におちいる〈わかるひとにはわかる〉 という視点は、その立ち位置がわかる側であれわからない側であれ、つきつめると排除に行き着くだろう。つまり「わかるひとにはわかるのだから、わからない僕は彼らとは絶対的に違う人間である」と思い込みかねないということだ。この思い込みによって作品のもつ魅力を捉え損ねているとしたらそれは勿体のないことであろう。『イディオッツ』に「誠実さ」があるとするならば、それは僕たちの『君の名は。』に対する誠実さと、通じ合うところがあるのではないだろうか。