僕はラース・フォン・トリアーの映画が好きだ。しかし、それぞれの作品に登場する主人公はみな、不幸なひとばかりである。というよりもそれは、幸せになろうとしているにもかかわらず、不幸に予定調和的に転落してゆく姿だ。不幸なひとを目の当たりにすると、その光景を愛することをためらうのだ。
『奇跡の海』と『ダンサー・イン・ザ・ダーク』においては、このような転落してゆく悲惨な主人公の姿が、強烈なイメージとして残っている。とりわけ『奇跡の海』は、「不幸な主人公」という点では抜きん出ている。
主人公のベスは下半身不随になった夫のヤンへの愛ゆえに、ヤンに愛人をつくって愛し合うことを強いられても、受け入れる。彼女は常に神に祈った。その篤き信仰心ゆえに、自分におそいかかるあらゆる不幸をも、神の与える試練だとした。彼女はヤンのために祈った。そして、いよいよヤンの命が危ないという時に、ベスは怖い男たちの元へ行き暴力を受けて身を滅ぼす。ところが、彼女の祈りは奇跡を生み出した。ヤンは元どおりになったのだ。
この物語が悲惨なのは、ベスの死とひきかえに、奇跡が起きてしまったということだ。一緒に死ぬことができたほうが、どんなに幸福だったことだろう。なぜなら、ヤンはベス自身だからだ。
僕は自分に問うた。このような主人公の悲惨な姿を見て、自分は喜んでいるだけではないのか、他人の不幸を眺めて快楽を感じているのではないか、ラース・フォン・トリアーの映画をかりにも好きだなんて、言ってはいけないのではないか、と。
そんなときに、Twitterでこんなツイートを見つけた。
「怖い映画を人はどうして楽しめるのか」という問いに「他人の不幸を眺める快楽があるから」と答えるのは,慧眼どころかまちがっていると思う.少なくとも怖い映画に特有の説明ができていない.というのは,他人の不幸を眺める快楽がある映画には,怖くないものだってたくさんあるからだ.
— kugyo W (@pubkugyo) 2016年10月14日
このような主張を、僕の発した問いに当てはめてみる。つまり、「ラース・フォン・トリアーの映画になぜ惹かれるのか」という問いに「他人の不幸を眺める快楽があるからだ」と答えるのはまちがっている。他人の不幸を眺める快楽のある映画など、トリアーの作品以外にもあふれているのだから。
たしかに、トリアー作品において、他人の不幸を眺める場面は多々あろう。しかし、トリアー作品の本質はそこには無くて、もっとトリアー作品固有のものだと想像される。その「固有のもの」が、とてつもなく倒錯的である可能性もあるのだが。僕はそれをずっと探してゆきたいと思っている。