いろいろな言葉が僕のなかに押し寄せている。言葉は現実を裁断して分節化するものだ。一方で、文脈とは分節化されたことがらの間に通っている血管のようなものだろう。そこに流れる血が、言葉を生き生きとしたものにする。でも、僕はまだ、文脈のなかをさまよっている感じがするのだ。そこに血が通っていないのかもしれない。
自閉症スペクトラムの傾向があるかもしれないと、前のカウンセラーに言われた。僕と彼女とのあいだには一定の信頼関係があったし、言葉を丁寧に選んで話してくれる人だったから、決して適当に言ったわけではないだろう。でも、やっぱり他人は他人だ。僕は他人の言葉を、良くも悪くも真に受けてしまう。自分を非定型発達者だと無条件に思い込むことは避けなければと思った。
僕は自閉症スペクトラムに関する本を読み漁り、自閉症スペクトラムの障害そのものに対する自分のおぼろげな「位置」を想像した。グレーゾーン。それは、位置が曖昧だという意味でもグレーであり、自分が非定型発達なのか定型発達なのかわからないという意味でもグレーである。グレーというのは、僕が、いちばん見ることの苦手な色だ。白黒ハッキリさせなければ気が済まない。自分やものごとを、言葉によって説明しないと気が済まないのだ。文脈のなかをさまようのは、僕にとってはとてもつらいことだ。
非定型発達者と自分を規定することは、まちがいなのではないか。「本当は」自分は定型発達者なのに、障害という言葉に甘えているのではないか。もうひとりの僕はそうささやく。でも、このモヤモヤとした生きづらさは何なのだろう。みんな「この生きづらさ」を感じているのだろうか。自分の弱さを声に出していいんだろうか。それとも、みんなは僕よりもっと生きづらさを感じているのだろうか。こんな風に、僕のなかのせめぎ合いがいつもやまない。
僕はグレーという色を知らない。グレーを見たい。グレーを見ることで、言葉に血が通うのだと思う。僕のように、グレーの絵の具を持っていないひとは、たぶんそのことで苦しんでいると思う。そういうひとが、世の中にどれくらいいるかわからない。でも、僕の白黒の言葉が、ほんの少しでも君に伝われば、君と一緒にグレーを見ることができるような気がする。