Monday, November 21, 2016

ウィトゲンシュタインの思い出

 今回は、僕自身と言葉について、思いをめぐらせてみたい。僕は、最近になって言葉を覚えたという感覚がある。少年時代を思い返せば、僕は言葉に対して苦手意識があった。作文の課題では、いつも一文字も書き出すことができずずっと机に突っ伏していた記憶がある。中学の個人面談では、担任の先生に、僕の文章力の無さのために将来を心配された。僕自身はというと、それほど危機感はなく、「自分は文章を書くことが苦手なのだな」と、それを誰もが持っている「不得意」のうちのひとつとしてしか見ていなかった。しかし、大学に入って論文を書く段になって、ついに自分の置かれた状況を思い知ることになった。卒業論文はウィトゲンシュタインについて書こうとした。しかし全く書けない。それもそのはずで、僕は自分の言語力の無さを客観視できていなかった。普通なら二万字以上書くところを六千字で提出した(なぜか卒業させてもらえたのだが)。しかも、日本語としてそもそも成り立っていないし、字数を埋めるための、ごまかすような表現も目立った。ただ、僕はウィトゲンシュタインについて全く勉強していなかったわけではない。むしろ「お勉強」はしていた。だが、自分の考えを言葉によって外に向けて表現すること、そのことが全くと言ってよいほどできなかった。僕のしていたことは、全くもって「哲学」ではなかったのだ。僕は「ああ、やっぱり僕は言葉が苦手なんだ」と思った。自分は他人よりも「感覚的に」生きているのだと思った。
 しかし、この「自分は素朴に感覚的に生きている」という考え(思い込み)は、大学を卒業してからまたしてもくつがえされることになる。僕はそのころからかなり神経質になっていて、悩んでばかりいた。そのことでカウンセリングを受けるようになったのだ。カウンセリングで気づいたことは、「自分は言語によってものごとを考える傾向がある」ということだ。これは僕の「自分は素朴に感覚的に生きている」という考えとは食い違う。自分に、頭の中で言語をよく使っているという側面があるなんて思いもしなかった。なぜなら、他人の頭の中はわからないからだ。みな「自分のように」考えていると思っていた。


 カウンセリングで自分の特性がわかったことで、自分は「言語であれこれ考える人間だ」という自己認識ができた。そのことにより、自分の中の言葉をアウトプットする欲求に駆られた。なぜなら、今まで頭の中の言葉は、「言葉」としてではなくて「何だかわからない」そして「その存在すら気づいていない」ものとして存在していたからだ。それが実は「言葉」という存在なのだと気づいたことは衝撃的だった。
 僕が文章をネットに書いてみようと思うきっかけになったブログがある。そのときのカウンセラーに、「ちょっとあなたは非定型発達の傾向があるかもしれないから、自分を知る良いきっかけになれば」と教えてもらったブログだ。asdlife.net
 アスペルガー症候群について書かれたものとしてもとても良いのだが、なんといっても、自分の考えや感じたことを、自分の言葉で、外に向けて発信しているところに、生き生きとしたものを感じた。そしてその文章に共感したときに自分の中の言葉が「意味」になってゆく瞬間があって、そのことが、今まで自分には欠けていたことだったんだと思った。
 以来僕は、自分の中の、今まで意味になれなかった言葉たちが、意味になろうと、急速に生気を取り戻そうとしているのを感じている。文章力なんてものは全然ないけれど、ウィトゲンシュタインの卒業論文よりも言葉に「自分の力」がこもっていると自信を持って言える。僕は何かを言葉で素朴に表現することを今覚えた。そしてそのことは、自分の生きている実感につながる。この喜びの気持ちは忘れないでおこうと思う。