Monday, May 23, 2016

平凡な一日

 近くの図書館に行って、駅のミスタードーナツでドーナツを食べて帰った。とりたてて書くようなことはない、すこぶる平凡な一日であった。
 予定のない休日は大体図書館に行くことにしている。昔は休日になるとバーに行って独りで酒を喰らったりしていたが、今ではそのようなことはあまりしなくなった。図書館に行くのは、本を読むためという理由もまああるのだが、本を見るとワクワクするからである。
 いつも、図書館に行けばこのありふれた平凡な一日が僕にとって何か意味のある一日になりはしないか、という期待を持っている。なにか自分にとって運命的な本に出会って、その本が自分を救済してくれるかもしれない、と。
 いつも行く図書館は、蔵書が割に豊富である 。サルトル全集やフロイト全集などの思想書もあれば、ドストエフスキーなどの文学全集もだいたい揃っている。僕がいつの日にかこれらの大作家の全集を読みうるという可能性だけで、僕はもうじゅうぶんだ。
 そのなかで目を引いたのはミシェル・シュリヤの『G・バタイユ伝』 である。この本は、バタイユの伝記的な書物として有名らしい。パッと開いたページには、文脈はよくわからないのだが「バタイユの書いた『ランスの大聖堂』は文学作品としてはまだまだ稚拙だ。」といった類のことが書いてあった。文学とは大変な世界らしい。それに、この本はとても興味深いことが書いてあるように直感的に思えたのだが、意味のない平凡な一日に救済を与えるために読むというのもなんだかおこがましいような気がして、本を閉じた。そしてふと考えた。僕がこの膨大な本の中から何かを選び取り、一文一文を、一時一時をかみしめるように体験するとしよう。 それでこの平凡で退屈な一日は、何か意味のある一日に激変するであろうか。そもそも「退屈しのぎ」に文章を読むということが、何か根本的な間違いなのではないか。
 僕はちかごろ漠然と詩に関心を抱いている。何の気なしに『立原道造詩集』を手に取った。彼の詩が読めたとかわかったなどとは到底思えない。しかし、そこにあるのは「平凡な日常そのもの」であった気がする。詩人が平凡な日常に美を見出している、ということだけはわかった。
 僕の間違いは、文章を読めば人生が無条件に有意義になるだろうと想定したことだ。そうではない。平凡な日常こそ詩なのではないか。これからは、ジョン・ケージのごとく日常のサイレンスに耳を澄ましてみよう。