Wednesday, May 11, 2016

負い目について

 以下は、今村仁司『交易する人間(ホモ・コムニカンス)贈与と交換の人間学』を読んで感じたことである。著者はまず、「人間が社会的であるとはどういうことか?」という視座に立つ。そこで明らかになる人間の相互行為を「交易」と定義し、交易が「交換」にとどまらず「贈与行為」に及ぶということを分析していく。そして最終的には、資本主義社会の成立の契機にまで着目しているのだが、そのようなでっかい視点は僕には到底持ち得ず、「社会哲学とはなんて大変なんだ!」と思った次第である。
 しかしながら、贈与行為の個別的な分析には非常に興味深いものがあった。そのひとつは「負い目」の概念である。なぜ「負い目」という概念に興味を持つかといえば、僕自身が常に負い目の感情を抱えているからだ。何をするにも負い目の感情が先行してしまい、罪悪感を呼び覚ましてしまう。負い目の所在を明らかにしたいという思いがあった。
 著者は、古代ブラーフマニズムを引き合いに出して「負い目」の原初的な形態を説明している。そしてそれは、人間として存在することそのものだという。良い文章だと思ったので当該箇所を長めに引用しておこう。

 (…)ブラーフマニズムの世界観は、基本的には、経済や法権利以前の、いわば存在論的な負い目感情を語っている。生きていること、生命をもっていること、つまりは現実存在はそれ自体で負い目なのである。人間は現世のなかに到来した瞬間 から「負い目的に、負い目として、ある」。負債の完済が死であった。してみると人間は生まれたときからその存在を負い目として預けられる。生誕と死の間の人生は猶予の期間である。生命は預かりものであり、自分のものでないものを預かっている。それが負債であり、いずれはすべてを返さなくてはならない。そして毎日少しずつ返していく。人生は将来の、いまだ到来しない死を預かって生きることである。死は生の構造である。(今村仁司『交易する人間(ホモ・コムニカンス)贈与と交換の人間学』、2016、講談社学術文庫、p.131)

 そしてこの負い目を誰に対して負っているのかといえば、それはアルカイックな社会においては究極的には神々なのだという。そしてその負債の返済の儀式が供儀である。
 僕は以前から、負い目の感情は自分の親に対して持っていると思っていた。確かにある意味ではそうであろう。子は親を選ぶ権利は無く、存在を親からあらかじめ与えられているのだ。人生が生きるに値するものだとすれば、それは「親から存在を与えられた」と言って良いだろう。しかしこの視点はあまりに狭い視点ではないか。アルカイックな社会においては、負債を負う対象は、神々、先祖、子孫という広がりを持っていた。僕の見方だとせいぜい「家族」とか「親」止まりなのである。これは生きるのにあまりにも苦しい。負債を負う対象がひとつの対象に集約されてしまうからだ。
 しかし、現代日本に生きるひとにとって、神々に対して負い目の感情を持つということはなかなか難しいし、そもそも負い目の感情は持とうとして持つものではない。大事なことは、先の古代ブラーフマニズムにもあるように、負い目の感情はそもそも人間存在そのものにおいてあり、人間にとって普遍的な感情なのではないかということである。そう考えると、負債を誰に対して負うかということはあまり問題にならないのかもしれない。