自分自身の力ではどうにもならないような外傷に、ひとはどのように対処したらよいのだろうか。それを拭い取ろうとして、「もう自分は悩まない。自分は解放されたのだ」と思い込むのは、根本的な解決にはならないし、外傷的体験は、またふとした時にかたちを変えて主体に侵襲してくるだろう。
僕が新海誠監督の映画『君の名は。』に感じた違和感とは、災害(映画では隕石の衝突)による悲惨という主体にとっての「外傷」がそもそも無かったことにされていることだ。タイムスリップによって災害は回避され、ラストシーンで瀧と三葉は再び巡り会う。一方で、ラース・フォン・トリアーの『メランコリア』では、惑星メランコリアの衝突による世界の終焉という〈究極の外傷〉を享受するのだ。そしてそれは本当に地球に衝突してしまい、物語は終わる。(参考→『メランコリア』〜救済としての世界の終焉〜)『君の名は。』と『メランコリア』は、このように、外傷に対する主体のあり方という点において対照的だといえるのではないだろうか。
外傷とは、主体にとって、〈操作不可能〉な〈他なるもの〉であるといえる。主体にとって、主体自身の力ではどうにもならないからこそ、それは主体に傷という痕跡を残すのである。『君の名は。』において、隕石の衝突という外傷(災害)は、想定されているにもかかわらず、そのできごとは存在しなかったことにされている。このような行為は、主体(今まさに外傷に直面する主体)が、〈操作不可能〉な〈他なるもの〉を操作することに他ならない。これは一見気持ちの良いことのように思われるかもしれない。主体に侵襲してくる〈他者〉を操作すること、つまりそれを排除することで、すでに主体が負っている傷、今まさに直面せざるをえない傷を、一瞬でも忘れることができるからだ。
しかしこのような〈忘却〉は、真に主体の実存を引き受けていくことといえるのだろうか。むしろそれは、外傷を負った主体にとっては、暴力ともなりうるのではないか。『君の名は。』の物語は、傷を忘却することで救われるひとや、傷を忘却することができるひとにとっては、問題がないものかもしれない。しかし、外傷を背負ったひとや、それを忘れようとすればするほど忘れられなくて苦しんでいるようなひとにとっては、その傷口を開くことになるのではないだろうか。傷を負ったひとにとって、その傷を忘れることとは、アイデンティティを失うことでもあるのだ。