僕はいままで、本の読み方というものがあまりよくわからなかった。わからないまま読んでいたのだ。いや、今もわからないまま読んでいるかもしれない。本は暗記物ではない。とりわけ文学はそうであろう。暗記物でないとしたら何であろうか。どのように読めばいいのだろうか。たとえば、今まさに読んでいるこの一文は次の瞬間には過去のものとして塵のように堆積していくのであろうか。
しかし、以前に比べて、心をとらえる断片に出会うことが少しずつではあるが増えてきた。そしてとりわけバタイユの文章には僕の心をとらえる力があるようだ。『眼球譚*』の一節である。
ほかの人びとにとって、宇宙はまともなものなのでしょう。まともな人にはまともに見える、なぜなら、そういう人びとの目は去勢されているからです。だから人びとは淫らなものを恐れるのです。雄鶏の叫びを聞いても、星の散る空を見ても、なにひとつ不安など覚えない。要するに、味もそっけもない快楽でないかぎり、彼らは「肉の快楽」を味わうことができないのです。
しかし、そうだとするならば、疑いの余地はありません。私は「肉の快楽」と呼ばれるものが好きではないのです。だって、味もそっけもないのですから。私が好むのは、人びとが「汚らわしい」と思うものです。私は人とは反対に、普通の放蕩ではぜんぜん満足できません。なぜなら、普通の放蕩はせいぜい放蕩を汚すだけで、いずれにせよ、真に純粋な気高い本質は、無傷のまま残されるからです。私が知る放蕩とは、私の肉体と思考を汚すだけでなく、放蕩を前にして私が思い描くすべてを汚し、とりわけ、星の散る宇宙を汚すものなのです……。(バタイユ『目玉の話』中条省平訳、2006、光文社古典新訳文庫、p.91)
「私」が草のなかに寝転がり、銀河を見上げながら夢想する場面だ。あからさまな変態性の吐露である。たしかにこの強烈な発言は、「まともな人びと」にとって露悪的な発言と取られるかもしれない。おまえは綺麗なものしか見ない、汚らわしいものを見ようとしない。その程度の放蕩では宇宙は綺麗なままである…。「まともな人びと」はあからさまな嫌悪感を示すであろう。
しかし僕はこれを読んだ時、ある種の安らぎのような感覚を覚えたのである。そしてこの文章を美しいと思えた。僕はまともではないのか?バタイユのような人間であるのか…?
おそらくそうではない。僕はこの「私」のいうような「まともな」人間であろう。僕は普段汚らわしいものに興味を持ったり、ましてや汚らわしいことをしているわけではないのだから…。(強いて言えば、僕は『眼球譚』を読もうとする程度には汚らわしい。)
ではなぜそのような感覚を覚えたのか。バタイユがこの文章によって僕を、汚らわしいものを見ようとする運動のもとへ誘ったのだろうか…。
*『眼球譚』という書名が通例になっているようであるが、中条省平氏は『目玉の話』としている。その改変の理由が巻末の解説に記されており私はそれに同意するのだが、ここでは通例になっている『眼球譚』を採用した。くわしくは解説を参照されたい。