バタイユの代表作『眼球譚』は、眼球や玉子への嗜好、屍姦趣味などのいわば倒錯的なエロティシズムの表現でもあったが、この愛すべき短編『マダム・エドワルダ』はもっと直接的で究極的なエロティシズムへの向こう見ずな努力であるという気がした。
最初にさまよいこんだのは、ポアソニエールの四つ辻からサン=ドニ通りにいたるあのいかがわしい界隈だった。ひとりぼっちで、猥褻な気分も高まり、酔いはきわまった。ひと気のない通りで、夜が裸になっていた。私も夜とおなじように裸になりたくなった。ズボンを脱いで、腕にひっかけた。夜の冷気に馬乗りになりたかったのだ。目もくらむような自由が私を包んだ。自分が大きくなったように感じる。手は硬直した性器をつかんでいた(『マダム・エドワルダ』中条省平訳、2006、光文社古典新訳文庫、p.8)
夜が裸になっていた...私も裸になりたい...夜の冷気に馬乗りになりたい...。ものすごい表現である。僕はこれ以上、この言葉を裸にすることはできないだろう。
バタイユは率直だ。男は本当に裸になり、ズボンを脱いで自分の性器をつかむのだ。これは、男の肉欲を示す事実ではない。彼は全てを裸にしたいのである。いかがわしい女、冷たい夜の闇、そして自分自身をも。
全てを裸にするために男は、身震いするほど猥褻で美しいマダム・エドワルダのもとをおとずれる。 そこで彼は神を見たのだ。
「わかってるでしょう、私は神なのよ......」(Ibid.,p.12)
マダム・エドワルダは「神のような女」なのではない。彼女は神なのだ。
(...)彼女は黒く、なんの飾り気もなく、穴のように不安をかきたてた。笑ってはいなかったし、それどころか、彼女を覆う衣の下に、もはや彼女が存在しないことさえ私ははっきりと悟ったのだ。そのとき__私のなかの酔いは完全に醒めはてて__「彼女」が嘘をついていなかったこと、「彼女」が神であることを知った。彼女の存在は石のように理解できない単純さを持っていた。街の真っ只中にいながら、私は自分が山のなかで夜と化し、生命のない孤独に包まれている気がした。(Ibid.,p.17)
人間は神ではない。しかしマダム・エドワルダは嘘をついていない。彼女は神であって神でない。でも彼女は神なのだ。
そんな馬鹿な話があるものか!ひとはそう言うであろう。しかしバタイユは努力する。ただ同時に、その努力が絶望的であるということも理解していた。そこがバタイユのすごいところだと思う。努力と挫折のうちに彷徨うのだ。
(ここで私が裸にならねばならないとしたら、言葉をもてあそび、長々と文章を連ねることは失望をまねくだろう。私の語ることから、衣服と体裁をひきはがし、裸形に戻すことが誰にもできないというのなら、私が書くことは無意味になる。[それゆえ、すでに明白なことだが、私の努力は絶望的だ。私の目をくらませる__雷のように焼きつくす__閃光は、もしかしたら私の目だけを盲目にするのかもしれない]。(...))(Ibid.,p.25)
バタイユの境地にはまだまだ及ばない。バタイユの言葉から、ほんの少しのことしか感じ取れていない。ただ、夜の闇の孤独や、裸であることや、絶望すら辞さない向こう見ずな努力だけは感じ取れたような気がする。それがこの本の力だ。