僕は今、音大の作曲科を休学中である。哲学科をなんとか卒業し、音大に入りなおしたまでは良かった。大学にうまく適応できず精神的に疲れてしまい、どうしたら良いかの判断ができぬまま学籍だけ置いてそのままの状態だ。
入学したころは音楽に憧れを抱いていた。自分はついに輝けると期待していた。僕は作曲を学びピアノも弾いていたが、他人に聞いてもらうだけのために、他人に褒めてもらうだけのために音楽を手段として利用していたのかもしれない。でもそれは後付けの理論にすぎない。「本当は自分は音楽に向いていなかった」「音楽は僕に味方しなかった」はたしてそう言えるだろうか。ずっと考えていた。
では、音楽を表現し始めた時のあの感動は無意味だったのか。
この問いに答えるきっかけを与えたのは、僕が言葉の喜びを覚えたことである。文章(それは別に、芸術的な文学作品である必要はなかった)を読んでいると、言葉によって自分がひきこまれる感覚を覚えることがある。「私」の主体性は希薄である。言葉は、人間をひきこみ感動させる能動的な力があるということに気づいたのだ。
ということはもしかしたら、音楽にもそのような力があるのかもしれない。僕は音楽にも突き動かされていたといえるかもしれない。だとしたら、僕は音楽を嫌いになったんじゃない。それに突き動かされなくなったんだ。たぶん何かの理由で。
その「何かの理由」とは、環境だったかもしれないし、自分のメンタル的な要因だったかもしれない。アカデミックに音楽を学ぶということの息苦しさだったかもしれない。うまく他人とコミュニケーションが取れなかったことかもしれない。乱暴に言ってしまえば、それは何だっていいのだ。問題は、何かを好きになったりやりたいと思うことは、完全に主体的な行為だ。と勘違いしていたことである。これは相当にしんどかっただろうと思う。
よく、「あなたは何がやりたいの?」とか「将来どうしたいの?」とかきかれる。そういう類いのことをきかれるたび、心が痛んだ。完全に主体的な行動を自分に要求していたからだと思う。だから、多かれ少なかれ、何かを好きになったりやりたいと思うことは受動的なのだ。「人生やりたいことをやりなさい」と言うけれど、僕にはそれはしんどいことだ。それができるほど強くもないし、健康でもない。だから僕はその都度その都度「突き動かされること」をやろうと思う。好奇心さえ失っていなければ、対象の方から自分に働きかけてくる。僕は少しだけ楽観的になった。今はただ音大に入る前にいた哲学科という場所に戻りたい。