Thursday, June 9, 2016

『死者』を読む

 バタイユが1943年ごろに執筆したとされる『死者』には、全編にわたってその名のとおり「死の匂い」が漂っているように思えた。「匂い」と表現したのは、この作品には「死」の内実はえがかれておらず、事実として呈示されているだけであるからだ。つまりこの物語は、エドワールという男の死で始まり、主人公マリーの死によって終わる。「エドワールが息を引きとったとき、彼女の内部に一種の空洞が生じ、長い戦慄が全身を走り、天使のように彼女を高みへ持ち上げた。」(バタイユ『マダム・エドワルダ(バタイユ作品集)』生田耕作訳、1976、角川文庫、p.39)という一節から始まり、その後を追うようなマリーの死で終わる。なぜエドワールは死んだのか、ふたりは愛によって結ばれていたのか、なぜマリーは後を追わねばならなかったのか、などなどの興味深い「死の内実」は謎としてわれわれに残されたままだ。示されているのはただ、マリーと居酒屋の男たちとの常軌を逸した淫行だけだ。そしてこのふたつの死の事実によってはさまれた物語は、死の匂いで充満するのだ。
 このような作品の構造を示すことでバタイユは、死というものをできるだけ実体化しないように心がけているように思えた。死をおぞましいものとして恐れながらも死に魅惑されるようなあり方(「死者のわきに、立ちつくししたまま、ぼんやり、我を忘れ、いつ果てるともない、愕然たる陶酔感に身をゆだねていた。絶望を自覚しつつも、その絶望と戯れていた。」(Ibid.,p.39))。つまり、死をかくかくしかじかのものであるとせずに絶望と陶酔の只中を生きるのである。このことは、イエスの死を実体化して権威に仕立て上げたキリスト教への反抗でもあるのだろう。
 もちろん、この物語は死がひとつの主題であるが、死の絶対的肯定ではない。死を肯定することは、死を実体化してしまうからだ。
 (この小説は物語の展開としては読みやすいものの、読後も釈然とせず、作品の短さのなかにバタイユの根本的な思想が凝縮されているのか極めて難解であるという印象を受けた。ただ、だからといって敬遠されるべきというのではなく、ひとつの小説としておもしろいと思ったので、多くのひとに読んでもらいたい。特に、マリーの常軌を逸した狂乱ぶりは読むひとを不思議な高みへとよびこむだろう。)