ふと思い立って、中井久夫の本を手にとった。彼の文章は、僕に強烈な衝撃を与えるようなものではなかったのだが、ふとしたときにいつも思い出すような地に足のついた存在感というものがある。それは、中井自身が言葉を丹念に選びぬいてわれわれに語りかけているからに他ならない。嘘っぽさや、安直な慰めとは無縁なのだ。
なかでも、『世に棲む患者』のなかの同名の一編はとても印象に残っている。中井は精神科医であるから、とりわけ臨床の観点から文章を書いているが、この本は非当事者にとっても参考になると思う。当事者の問題圏は、非当事者の問題圏と地続きであると思うからだ。そして僕自身も、いわゆる精神科の患者ではないが、自分が中井の呈示するような問題圏にいると感じる。
この一編のなかで、中井が強調しているのは、「安定して世に棲みうるライフ・スタイルの獲得(p.24)」である。患者は、しばしば「思いがけない」非公式な居場所を持っていることが多いという。
現実に、多くの患者が治療者や家族の思いもよらない生活世界をもっている。そして、そのことを人に語らないでいる。私が知りえたのも、彼らがうっかり洩らしたことばの端からであったことが多い。ところが、その生き方をすでに十数年前からしていたことが少なくなかった。(p.11)
そしてこれらは「ひそやかな場」であることが多いというのだ。海を見に行ったり、映画館に行ったり、ビア・バーに行ったり。
なぜ彼らは、それらを、そっとしておこうとするのであろうか。
まず、それらが、彼らにとって非常に大切なものであるらしいことがいえよう。彼らは、それを本能的に感じとっているようである。
一方、おそらく、彼らは、この大切さが一般に理解されず、知られれば、どちらかの方向に乱されることを直感しているのではあるまいか。(p.14)
彼らは、それを知られる、理解されるということを欲していない。公式である必要はない。でもそれは大切ではないからではなくて、それが大切だからなのだ。
中井はこのような、思いがけない、ひそやかな場というものを「社会復帰」のひとつの側面だと語る。
私は、いわゆる''社会復帰''には二つの面があると思う。一つは、職業の座を獲得することであるが、もう一つは、''世に棲む''棲み方、根の生やし方の獲得である。そして、後者の方がより重要であり、基礎的であると私は考える。すなわち、安定して世に棲みうるライフ・スタイルの獲得が第一義的に重要である。「働かざる者は食うべからず」(パウロ)と人はいうだろうか。しかし、安定して世に棲みえない──そのような座をもたない──人に働くことを求めるのは、控えめにいって過酷であり、そして短期間しか可能でないことだろう。(p.24)
このように中井は「安定して世に棲むこと」を「職業の獲得」より上位におく。そしてその棲み方は、なにも同心円的にライフ・スタイルを拡大することだけではなくて、ほんのささやかな形であったりする。しかしこれは、「働かなくてもよい」ということでは必ずしもなくて、あくまで、世に棲むことが優先されるということだ。逆に言えば、働いていて、社会と何らかの関わりを持っているが、「世に棲む」棲み方の獲得がなされていなくて生きづらさを抱えているという場合もあるだろう。何はともあれ、人間は生きてゆかなければならないから、「世に棲む」ということに少しでも目を向けられれば、生きづらさも少しは軽くなるのではないかと思う。生きるということにとって、そのことがまず先決なのではないか。