ここ数ヶ月の間、自閉症スペクトラムについて考えることが多くなった。むしろ、ずっと考えていると言っても言いすぎではない。僕に自閉症スペクトラムの傾向があるということはわかったのだが、カウンセラーに言われた「あなたはアスペルガー傾向があるかもしれない」という言葉が自分の思考を覆いつくしてしまって、そこから抜け出せなくなっていた(もちろん、僕と一定の信頼関係を築くことができたうえで、慎重に言葉を選んでこのことを指摘してくれたカウンセラーには、大変感謝している)。僕は自閉症スペクトラムに自分が当てはまるかどうかということだけに執着していた。自分でもそれに気づいていたのではあるが、どうにも止まらない。たとえば、自閉症スペクトラムの当事者である綾屋紗月氏は、自分がアスペルガー症候群だと診断されることで、生きづらかった過去と現在が一本の線で繋がった、というようなことを言っていた。僕もそのような「自分探しの旅」に出ていたのだと、綾屋氏に対する共感を覚えつつ感じていた。しかし、綾屋氏は結局のところ「アスペルガー症候群」という診断名では自身の生きづらさは真に語られえず、発達障害の当事者研究へと方向転換したのではあるが。このような「自分探しの旅」はいつか終わりが来るのかもしれない。
僕が診断名とか、定型発達とか非定型発達とかの概念にとらわれているということは「診断名にとらわれないほうがいいよ」とか「もっと柔軟に考えようよ」などとただ単に言われても、なおらなかったことだろうと思う。診断名にとらわれることは本末転倒であるならば、なぜそうなのかがわからなかったからだ。だから僕は、そういうことを丁寧に言葉で説明してくれているひとたちを探した。
動物学の博士であり、自閉症の当事者でもあるテンプル・グランディンは、僕の疑問にひとつの回答を与えた。
私のもとには、こんなふうに言う親がひっきりなしに訪ねてくる。「うちの子は、最初は高機能自閉症と診断されました。次に*1ADHDって言われて、それから、アスペルガーだって言われました。ほんとうは何なのでしょう」。親の苛立ちはよくわかる。診断名にとらわれて考える人だらけの医療制度に振りまわされているのだ。だが、親も医療制度の一端であることに変わりはない。こんなふうに尋ねる親がいる。「ただ一つ、自閉症の子どもがするべきいちばん大切なことって何でしょう」とか「行儀の悪い子に、何をすればいいのでしょうか」など。それって、どういう意味?
この手の考え方を、私は診断名にとらわれていると言う。物事を指す言葉が何かということにこだわるあまり、物事自体が見えなくなってしまっている。(…)
こういうときには、私はいつも同じ返事をする。「診断名が何なのかを心配することはありません。何について困っているのか話してください。特定の症状の話をしましょう」
(テンプル・グランディン、リチャード・パネク『自閉症の脳を読み解く―どのように考え、感じているのか』中尾ゆかり訳、NHK出版、2014、p.148)
つまり、診断名も大事な一要素ではあるが、一番肝心なのは個人個人の症状であり、何に困っているか、である。それがあって初めて自閉症について語られえるのに、はじめから診断名という「名前」を問題にするのは、順番が逆ではないのか、ということである。「自閉症スペクトラム」というものがまずあって、それに自分が該当するのか、ではなくて、ひとつひとつの症状、困りごとがまずあって、それによってスペクトラムという事象がかたちづくられるのだ。
このように、「自閉症スペクトラム」という概念は、個人の主体性のうえに成り立っている。このことは、当事者の主体的な語りを取り戻すという「当事者研究」の考え方にも通ずるものがあると思う。さらには、以下のような精神分析の理念にも、我々は学ぶべきものがあると思うのだ。
(…)分析においては、一つの症候に対して固定した意味を与えることはできない。一つの症候には常に特殊な主体的意味があり、それは、患者自身が見つけ出さねばならず、他人には未知なものである。精神分析では分析家がその意味を知っているものだとされることがあるが、それは間違いで、分析家といえどもそれを直接知ることはできない。分析家は患者がそれを見出すための援助をするだけである。分析家がそれを発見し、患者にその意味が与えられた場合、それが患者の真理だという保証はどこにもなく、逆に暗示となってしまうので、それは避けなければならない。(向井雅明『ラカン入門』ちくま学芸文庫、2016、p.52)
カナーによって自閉症という診断名が確立された頃は、精神分析が幅を利かせていたために、自閉症は親のせいだという仮説まで立てられていたらしい。たしかに、精神分析はエディプス・コンプレックスという、発達障害と相性の悪い爆弾をかかえていることはたしかだ(それが精神分析に対する誤解にもとづいているにしてもである)。しかし根底において、患者(当事者)の主体的な言葉を大事にしているという点を、僕たちは学ぶべきではないか。
僕は、このように、ひとりひとりの言葉を大事にしているひとを探し求めていたのだと思う。「うつ病」にはこれ、「発達障害」にはこれ、とマニュアル的に処方箋を与えることもたしかに役に立つし大事なことかもしれないけれど、根底的なところで自分の主体的な症状であり言葉を忘れてしまえば、僕たちは窒息してしまう。「名前を与えられないもの」を語ることは時間がかかるし、不安にもなる。だからすぐに「名前」にすがりたくなる。でも大事なことは、時間がかかっても自分の言葉で語ることなのだろうと思う。そして、このことを教えてくれるひとはたしかにいる、ということを、今日は書きたかったのである。
*1:傍点のタイプ機能がないため、以下太字に変更