以前の記事において、ラース・フォン・トリアーの『イディオッツ』に言及して、自覚(露悪性の自覚)の絶対視を批判したが、今回はその内実をさらに掘り下げてみたいと思う。自覚というのは、以下の記事で言われているような「内省的な態度、またそれを誇る意識」である。「自分のことがよく分かっている」ということが、何よりの誇りなのである。
このように、じぶんの思考にいかなる場合にも至上の価値を見出すという自己愛としての自覚が、『イディオッツ』にもみとめられる。作品中の「イディオッツ」という集団は、障害者のふりをすることで、健常者の偽善(それが存在すればの話であるが)を暴こうとするのだが、そもそも彼らの行為も、偽善に帰着することは明らかである。しかし、彼らはそのことを、重々承知しているのだ。彼らにとって最も重要なのは、「自分たちは誰よりも自分たちのことがよくわかっている」といういわば「無知の知」である自覚的態度のほうなのだ。
「たとえ自分がクズであっても、そのことを自覚している分だけ自分は賢明だ」という論理である。これはある意味、「無知の知」にも通じるところがある。自分に対するメタ認知を高級な思考だとみなすのである。
「自傷的自己愛」の表出としての自虐 - hesperas
http://dismal-dusk.hatenablog.com
このように、じぶんの思考にいかなる場合にも至上の価値を見出すという自己愛としての自覚が、『イディオッツ』にもみとめられる。作品中の「イディオッツ」という集団は、障害者のふりをすることで、健常者の偽善(それが存在すればの話であるが)を暴こうとするのだが、そもそも彼らの行為も、偽善に帰着することは明らかである。しかし、彼らはそのことを、重々承知しているのだ。彼らにとって最も重要なのは、「自分たちは誰よりも自分たちのことがよくわかっている」といういわば「無知の知」である自覚的態度のほうなのだ。
さて、僕の『イディオッツ』の解釈はこうである。つまり、『イディオッツ』はこのような露悪的自己愛を告発しているのではないか。僕にはこの作品の「思わず目を背けたくなるような」映像の数々は、我々に「露悪的自己愛はこんなにも醜悪でありうるのに、それでも自覚を至上の価値とするのか」と問いかけているように思えてならない。それらの映像は、前述の記事の著者である夕鬱氏が以下のように投げかけた問いに対して、どこまでも批判的である。
(…)「自分の考えていることは自分が誰よりもよく分かっているとは限らない」と念頭に置いてみることで、「自分がダメなことは自分自身が誰よりもよく知っている」という意識が徐々に溶けていくこともあるかもしれない。 しかしその場合も、「私は『自分の考えていることは自分が誰よりもよく分かっているとは限らない』ことを知っている」という、よりメタレベルの高い認知が新たに自己愛の担保となってしまうのかもしれない。このようなメタ認知は無限に続き終わりが無いのだろうか。だとすれば、私たちは自己愛の担保を無限に備えていることになるのだろうか。
「自傷的自己愛」の表出としての自虐 - hesperas
このようなメタ認知を一度認めてしまうと、どんな醜悪なことであっても「自分自身のことを客観的に見ていれば」という条件付きで許されてしまうことになる。そしてその客観性の尺度はどこまでも自分であり、自分という神である。*
*しかし、この夕鬱氏の問いかけも、おそらく自身が自傷的自己愛に陥るのを防ぐための配慮に基づいているだけのようでもあるが。