Wednesday, January 4, 2017

『奇跡の海』と『ダンサー・イン・ザ・ダーク』における贈与の問題

 今回は、ラース・フォン・トリアー監督の『奇跡の海』と『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を哲学的に重要な主題である〈贈与〉という観点から考えてみたいと思う。この二つの作品は、〈贈与〉という問題設定においてシンクロしていると思われる。
 注目すべきは二人の女性だ。つまり、『奇跡の海』のベス、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のセルマである。この二人の行為は〈自己犠牲的〉だと、これらの作品をみたひとは思うかもしれない。『奇跡の海』においてベスは、夫のヤンへの愛のために自らの身体を他の男性によって慰めた。そして最後は、自分の命とひきかえにヤンの命が救われるという〈奇跡〉が起こされたのである。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』においてセルマは、息子の失明を防ぐために死刑を受け入れる(友人のキャシーは息子の手術費用で弁護士を雇うことを勧めたが彼女はそれを拒否した)。彼女にとって最も大事なことは、自分の命ではなく、息子の眼だったのだ。
 この、一見すると自己犠牲的に見える二人の行為は、本当に自己犠牲といえるのだろうか。
 まず、自己犠牲とはどのような行為であるか、考えてみよう。自己犠牲とは、相手に対して自分の内なる何かを犠牲にすることで他者に与える行為であろう。自分を犠牲にすることとは、自分の〈欲望〉を犠牲にすることである。自己犠牲においては、自身の内的なエネルギー(欲望)に忠実ではないのだ。では、贈与とはどのようなものであるか。バタイユはフランスの社会学者マルセル・モースに言及してこのようにいう。
 「理想的なかたちは」とモースは指摘している、「ポトラッチを与えて、返報を受けないことであろう。」この理想は慣習の中に可能な対応物を見出せぬような或る種の破壊行為を行なうことによって実現される。(「消費の概念」『呪われた部分』 ジョルジュ・バタイユ著作集、生田耕作訳、二見書房、1973、pp.275-276)
 ここでいわれているのは、〈純粋な贈与〉である。そしてそれは「可能な対応物を見出せぬ」ために、一方的な贈与となる。ポトラッチにおいては、相手よりより多く贈与したほうが勝者となる。つまり、贈与行為が各人の内的エネルギー(欲望)にもとづいているのだ。
 またバタイユは、このような一方的な贈与を、太陽のそれになぞらえる。
 生命の最も普遍的な条件について簡単に触れておきたい。決定的重要性をもつ一事実に注意を惹くだけにとどめよう。つまり太陽エネルギーがその過剰発展の起源であるということだ。われわれの富の源泉と本質は日光のなかで与えられるが、太陽のほうは返報なしにエネルギーを──富を──配分する。太陽は与えるだけでけっして受け取らない。(Ibid.p.35)
 このようなバタイユ的な極限の贈与を念頭に置くと、この二人の行為の内実が明らかになる。つまり、ベスとセルマの二人は、内的エネルギー、つまり〈己れの欲望〉を犠牲にしなかったのだ。であるから、彼女らの行為は〈自己犠牲〉ではなく〈純粋な贈与〉である。彼女らは〈己れの欲望〉に突き動かされて愛する者に贈与したのである。そしてその内実は、「可能な対応物を見出せない」ところの〈自己破壊〉であり〈死〉であったのだ。
 付言しておきたいのは、二作品とも、贈与された側のことがあまりえがかれていないということだ。『ダンサー〜』においては息子よりも「セルマの死」に焦点が当てられている。『奇跡の海』においてはむしろ、〈奇跡〉が起きた後の、息を吹き返したヤンの清々しい表情が見られる。これらのことは、贈与行為によって相手側に〈負い目〉が生じなかったということではないだろうか。バタイユのいう〈太陽の贈与〉がなされたということの証左ではないだろうか。